2021年 12月の過去ログ
2021-12-31
かたくら通信・ご近所
向こう三軒両隣一作日、タカコサンは立川まで10時のバスで買い物に出かけた。
私は透析の日なので自室にこもってブログの文章を考えていた。
すると、救急車のサイレンが近づいてきて、わが家の前の通りまで来ると音を小さくして止まったようである。
昔なら家を飛び出して見に行ったものだが、そこは節度をもって控えた。
どのお宅が救急車を呼んだのか気になりつつも自分の仕事に没頭した。
12時45分、身支度をして透析に出かけたが、街は静まりかえっていて、何事も起こっているようには思えなかった。
ただ、あるお宅のガレージにいつも停まっている車がなかった。
透析から帰ったのが7時ころだったが、タカコサンには何の情報も入っていなかった。
わが家は今年度の自治会の地区の班長をしているので、特に気にかかるとところだった。
けれど、地区の皆さんとは回覧板を回すくらいで、ほとんど付き合いはない。
むかし、「向こう三軒両隣」という言葉があったが、とっくに死語となってしまったようだ。
もちろん、会えば挨拶はするがその域は出ない。
昔あったような付き合いをしているのは右隣の家とお向かいの家だけである。
その他の家などは家族構成がどのようになっているのかも知らない。
個人情報がいろいろな社会構成で言われているが、ご近所も同じである。
ましてや病気を抱えている腎クリニックのような所では他人にかかわらないのが鉄則のようである。
過去のブログで何度かクリニックの希薄な人間関係について書いてきたが社会全体がそうなのであるから必然かもしれない。
折も折姉より電話がかかってきて、千葉に住む従弟が具合が悪いらしい。
連絡されるのを拒否しているのでいかんともしがたい。
もう一人の従弟も親類付き合いを一切やめて今は消息不明となっている。
社会全体が内へ内へとこもっていくようで寂しいかぎりである。
今年はコロナのために岐阜の一家は来ないようにと言っておいた・・・けれど代わりに一番下の孫が務めている青物市場の野菜が送られてきた。
今日は今年最後の透析、新年は一月三日より始まる。
透析患者には暮れも正月もないのだ。
2021-12-30
季節だより風だより・小晦日(こつもごり)
お飾り12月30日を小晦日というのだそうだ。
12月31日を大晦日というのに対して小をつけたのだろう。
さて、この小晦日は大忙しである。
まずは古いお札などをすべてはがして新しいお札と取り換える。
わが家では故郷の身延町切石の菩提寺から火伏せのお札をはじめとして何種か送ってくる。
主に悪霊が入り込まないように玄関周りに張り付ける。
そして神様関係のお札も届く。
この地の神様はどなたかよくわからないので、戸隠に住むMさんから送ってもらう。
彼は私の教え子の夫君で矢本神社の宮司であり戸隠神社にも関係している
本業は神社や仏閣の設計をしている。。
この矢本神社は謡曲「紅葉狩り」に出てくる悪霊を退治するために矢を放った神社だそうである。
過疎化で氏子さんたちは50人に満たないようだが由緒正しい神社なのだ。
届いたお札類をすべて取り替えてから、門松を飾り、お供えを神棚にあげる。
これで気分一新で新しい年を迎えることができる。
と、いかにもこの家の主人がやったように見えるが実はタカコサンにやってもらったのだ。
実質、この家の主人はタカコサンなのだ。
私は指図ばかりして全く役に立たないので午後からは散髪に行ってきた。
頭も顔もさっぱりして「さーぁ来い、お正月」である。
しかし、私の一年の締めくくりはやはり透析である。
暮れも正月も全く関係なく透析は続いていく。
新しい年も三日が月曜日でローテーション通りだ。
クリニックのスタッフも暮れも正月もないわけで、大晦日の終わりも11時ころになると言っていた。
本当にご苦労様である。
彼らのおかげでこの命ながらえているわけだ。
感謝・感謝である。
2021-12-29
透析日記・啓翁桜
病院仲間相模原市淵野辺に住むKさんより桜の花を送ってもらった。
この時期に咲く桜で山形県の名産だそうだ。
起源は90年ほど前に中国のミザクラと彼岸桜の交配によって久留米市で生まれた。
啓翁桜の命名はこの桜を誕生させた良永啓太郎さんの啓を取ったのだそうだ。
私はこの桜の存在は知らなかった・・・タカコサンはお茶の関係で知っていた。
薄い桃色の小さな可憐な花をつけていてお正月の花にふさわしい。
花を送ってくれたKさんは今から40年ほど前に知り合った病院仲間だ。
当時、私は腎臓結石を抱えていてちょうど2回目の手術だった。
破砕手術といって水槽に全身を横たえ、外部から衝撃波を加えて石を破砕する。
ドイツの潜水艦の技術から生まれた治療法で当時はこの手術ができる病院は数えるほどしかなかったようである。
もちろん高額医療で保険適用などなかったように思う。
けれどからだを切開して痛めつけるような方法ではないのでダメージは少なかった。
Kさんは私より20歳ほど若く、結婚して間もないころでお子さんも小さかった。
当然、手術に対する恐れや心配が多々あったようで病院には一族郎党が集まっていた。
ちょうどベッドが近かったので、「手術は全く心配ない」ことを教えてあげた。
それから、私もKさんも無事退院出来て、以来ずっと友誼が続いている。
お嬢さんも高校・大学時代にはタカコサンのお弟子となってお茶を習いに来ていた。
当時の病院は何か「同病相哀れむ」的なものがあって人間的な繋がりがあったように思える。
おそらく、Kさんとの病院でのふれあいは4日ぐらいではなかったろうか。
それに比べて今の透析クリニックではほとんど人間的な触れ合いはない。
お互いにバリアーをめぐらしていて他人の侵入を受け付けない。
すでにクリニックに通い始めて2年余となるが、あいさつする人はほとんどいない。
こちらがあいさつしても返ってこないのでいつの間にか私もやめてしまった。
ただ、一人だけ私より半年ほど早くこのクリニックに通い始めたというNさんだけは会えば簡単な会話をする。
しかし残念ながら彼との時間帯が変わってしまったので話す機会はなくなってしまった。
なんとなく今の都会の世相を表しているように思える。
新潟のY君の話によれば、彼の病院では「腎友会」なる組織があり、親睦を深め助け合っているそうだが・・・
我がクリニックにはとてもそんな雰囲気はないなぁ・・・・
2021-12-28
友がき・女友達
99歳日曜日、町田の鶴川に住むS先生より電話がかかってきた。
いつものことながら私の安否を問う電話だった。
先生は私のブログには何度も登場してもらっているが、鶴川四小でご一緒した。
同学年を組んで1・2年生の教え方を指導していた。
お母さんたちを組織して読書会を5年ほど続けた。
先生は60歳で退職してそれからの人生はまさに晴耕雨読だった。
特に先の大戦を青年期に体験し、東京大空襲にも被災している。
耕と読の合間には町田の語り部の会に所属して昔語りや、戦争体験を語って歩いた。
一人暮らしなので、自宅を子育て中の母親たちに開放して「柿の木文庫」というミニ図書館を開いている。
また、自分の土地を障碍者施設のために提供もしている。
こういう人こそ文化勲章でもなんでもあげてほしいものだ、
ところで電話であるが「元気?」で始まった。
本当はわたしのほうから安否をたずねなければならないのにいつも先生のほうからだ。
先生は御年99歳でいよいよ来年には100歳の大台に乗る。
私の最年長のガールフレンドである。
電話から聞こえてくる声はつややかで声だけ聴いていると60代そこそこである。
元気の秘訣を聞いてみると・・・決して無理をしない、そしてくよくよしないことだそうだ。
今は週に一度クリニックが主催している体操に通っている。
メンバーの中ではもちろん最年長であるが一番元気だそうだ。
80歳90歳を超えると、もはや年齢ではなくその人の持っている気力や体力のようだ。
S先生の場合は背筋も伸びているし、腰も曲がっていない。
秋口までは朝起きると必ず庭の草取りをしていたそうだ。
今は外には出られないので編み物をしている。
この次は私が忘れずに「電話をかける」
と思うのだが・・・
思えばコロナ禍もあってもう3年ぐらい先生とお会いしていない。
いつ終息するのかわからないけれど、私の方からお宅に訪ねてみようと思う。
声の調子からするとまだまだ元気そうである。
2021-12-27
学びの窓・発達障害
問題児姉と甥との食事の時、教育談議になった。
姉には12人の孫がいてそれぞれユニークな育ち方をしている。
今、思春期真っ盛りの孫もいてそれぞれに葛藤があるようだ。
いかにして親離れをして自立していくかが難しいようである。
そんな話題に花が咲いているときに、甥のタカオが突然のように
「自分は子供の時に、どうやら、発達障害があったようだ」といった。
聞いてみると、ともかく落ち着きがなく親にも学校でも注意され、担任にはレッテルを貼られてしまったそうだ。
それが尾を引いてか、高校も有名進学校に入ったけれど落ちこぼれて、中途でやめてしまい、単位制の学校に入りなおした。
大学は卒業して就職したが5年でやめて一年かけて日本周遊の旅にでて、続いて世界を回ろうとしていた時にコロナ禍にあってしまった。
思えば私の教員時代には「発達障害」などという言葉は無かった。
おそらく30年ぐらい前から言い始められた言葉のようだ。
しいて言えば落ち着きがないとか暴力的であるとか、寡黙であるとか・・そのような子どもは「問題児」でくくっていた。
「発達障害」がいいのか「問題児」が適切なのかわからないが、子供などというものはそれぞれ個性がありそれが突出すると、はみだしモノとして何かの言葉でくくろうとする。
私なども小学生の時にはすぐに自分の知識をひけらかして、授業の邪魔をしていたようだ。
中学に入ると、能力的には社会科や国語はまぁまぁだったが英語と数学がからっきしだめだった。
英語・数学ができないで医学部に受かるなど夢のまた夢、はなっからあきらめていたが親の期待もあってダラダラと3年も浪人をした。
親にとっては厄介な問題児であったに違いない。
そこで一念発起して医者になるのをあきらめ教師への道を選んだ。
ある意味では立派な発達障害である。
タカオについていえば、日本の隅々まで巡り、この冬は極寒の北海道に行き、オホーツクの海を見てくる・・・それも小説の描写を確かめたいという。
子供の時にどんなレッテルを貼られたにしても今は立派に働き自分の意思でやりたいことをする。
発達障害など吹き飛んでしまっているではないか。
2021-12-26
かたくら通信・姉・甥
行動力昨日の夕食、「れんが亭」でのことだった。
久しぶりに2歳上の姉と会って会話も弾んだ。
私は上に二人の姉がいて下に7歳違いの弟がいる。
けれど長姉は一昨年無くなってキョウダイ3人になってしまった。
昨日の食事はすぐ上の姉で、2歳違いである。
甥のタカオは弟の息子でもうすぐ31歳となる。
姉は果樹農家に嫁いでいるが今でも現役で観光農園や果物発送をすべて仕切っている。
農家の仕事だけでなくひところは公共の役職に就き各種会議にも出ていた。
もっともすごいのはガールスカウトの団を仕切っていて県の顧問だそうだ。
性格は歯に衣をかぶせぬ言葉とその行動力である。
今回も甥のタカオの運転で八王子の駅構内にある「やまたま屋」という物産店に干し柿を届けに来たのだ。
また、とても83歳には見えず70そこそこで「年齢に8掛け」と言っている。
でもちょっと60代には無理があるかもしれない。
彼女が言うのにはお産以外で入院などしたことがないのだそうだ。
私の唯一の「叱ってくれる人」でいつまでも長生きしてほしいものである。
今の健康状態と精神力ではおそらく私よりは長生きするに違いない。
甥のタカオは昨年から今年にかけて我がブログにしばしば登場してもらったが現在は姉の果樹園で働いている。
朝は5時に起きて自転車で甲府盆地を東から西へと走って6時には働き始めている。
今は体力と財力をためる時で、コロナ禍が収束したら再度世界への旅に挑むのだそうだ。
コロナのために足止めを食らったペルーを起点として南アメリカを回り、それからヨーロッパに渡るのだそうだ。
ともかく行ってみたいのがポーランドであるという。
その理由は先年日本一周の旅をしていた時にポーランド人と会ってかの国の話を聞き魅せられたのだそうだ。
この年度末から年始にかけて果樹園も休みなので北海道旅行に行くという。
極寒のオホーツクの海を見たいとのこと。
その理由は桜庭一樹の小説にオホーツクの海を描写したシーンがありをそれを確かめに行きたいのだそうである。
できれば流氷もみたい・・・でも流氷は年末年始ではまだ無理かもしれない。
彼の行動力には驚嘆するばかりである・・・
2021-12-25
なごみ食堂・トンカツ
脂身と塩姉が甥のタカオ君を連れて、八王子駅の売店に品物を卸にやってきた。。。
帰りにわが家によりたいという電話があったので大歓迎。
今の時期は果物はすべて終わっているが甲州名物の干し柿が最盛期なのだ。
皮をむいた柿を軒下につるして寒風が吹く今頃が食べごろとなる。
晩秋から初冬にかけての風物詩である。
遠くから見るとだいだい色の暖簾を幾重にも掛けてあるよう
特に「甲州百匁」の干し柿は絶品である。
自然の力を最大に生かした究極の甘さである。
もちろんわが家にも持ってきてくれた・・・血糖値がグンと上がりそうな美味しさだ。
久しぶりの来訪なので食事に行こうと誘ってタカコサンと4人で行きつけのとんかつ屋に出かけて行った。
このとんかつ屋は私たちが八王子に引っ越してきてからの付き合でかれこれ40数年は立とうとしている。
最初は別の場所に在ってズバリ「ああはらへった」が屋号だった。
店は16号沿いにあり、トラックの運転手を相手の店だった。
こういう店は味には自信があり繁盛店であった・
ところが八王子バイパスが開通したためにトラックの運転手相手では店は立ち行かなくなった。
そこで、同じ16号沿いに新しい店を構えた。
屋号は「れんが亭」とした。
煉瓦亭と言えば銀座にある名店でトンカツ発祥の店と言われている。
「煉瓦亭」とすれば商標登録に抵触しそうなので「れんが亭」したのかもしれない。
この店も先の店に劣らず味をちゃんと踏襲している・・・特に原料である豚肉が良い。
私はわざと脂身の多いところを頼んで揚げてもらう。
これを、塩と辛子でたべるのだ。
肉本来のうまさを塩が引き出してくれる。
トンカツソースをかけてしまうと肉の味がソースに殺されてしまうような気がしてならないのだ。
今回も特に脂身多くと頼んだところ願い通りのトンカツとなった。
脂身はしおと辛子で甘みを引き出してくれる。
久しぶりにお美味しいと思うものを堪能した。
2021-12-24
学びの窓・表現者
コンサート昨日、六君子湯を処方してくれた皮膚科の医師のK先生のこと。
患者と医師の関係を超えて先生と親しくなったのは、まず同世代であることだった。
先生は1939年(昭和14年)11月29日生まれで私が1940年11月30日生まれ。
ちょうど一年の差はあるけれど、同時代の空気を吸って生きてきた。
加えて、先生は無類の本好きで特に海外のミステリーについて造詣が深かった。
私は翻訳物はちょっと苦手であったが、診察に行くと病気のことよりも文学談議に花が咲いた。
そして私を海外ミステリーに引き込もうとして面白かった本を取っておいてくれた。
私よりもタカコサンの方がその恩恵に浴したようだが・・・
先生は70代後半からギターの演奏会を近くの喫茶店で開くようになった・・・私はそのことを最近知ったのでまだ聴かせてもらってはいない。
残念ながらコロナ禍で一昨年より中止となっているようだが、午後から診療の終わった後には練習していると受付の人が言っていた。
腕前については分からないがちゃんとプロに指導を受けているそうだ。
またミニコンサートが再開されたら是非聴きたいと思っている。
同じく音楽関係だが・・・タカコサンの元同僚のコンサートが神奈川県の大和市で開かれた。
午後からタカコサンは出かけて行った。
元同僚は声楽で、やはりちゃんと指導者について練習を重ねていてその成果の発表とのことであった。
彼女は退職してから視力が衰え、今は全盲に近いのだそうだが練習を続けている。
コンサートは50人ぐらい入れる小ホールだったそうだが、ほぼ満席でその多くは知人友人で「同窓会のようだった」とタカコサンは言っていた。
讃美歌や日本の歌曲などを20曲ほど歌って楽しいコンサートだったそうだ。
前述したK医師は83歳、元同僚は72歳、二人とも何かを表現することによって生きる活力をもらっているようである。
かくいう私は音楽は全く駄目だが、文章を書くということによって、他者とつながり元気をもらっている。
とにもかくにも読んでくださる方が毎日2000人近くもいるということはありがたいことである。
これから老齢化が進むことは間違いないが、何かで自己を表現することが生きることにつながっていくのではないかと思った。
2021-12-23
透析日記・漢方薬
六君子湯月曜日に採血があり昨日今年最後の処方箋が出た。
採血の結果は鉄分が少なく院長は「身体が鉄を欲してる」と言っていた。
鉄分が少ないと貧血を起こし昂ずると倒れたり、意識不明になるのだそうだ。
私の場合はまだ貧血状態にはなっていないがいくら鉄剤を注射しても数値は上がらない。
年が明けたら毎回、鉄剤を投与してみるかと言っていた。
そのほかの結果はほぼ良好で毎日飲んでいる薬の処方箋が渡された。
しかし、何度か院長にも回診してくれる医師たちにも相談したのだが・・・胃の調子がすこぶる悪い。
専門病院で胃カメラもやったが特に重篤なことはないと言われた。
また、いまクリニックで処方してくれている薬がベストだと言われた。
けれど半年以上も経つが胃の不快感は取れない。
具体的には、胃のもたれ、むかつき、食欲不振などで空腹時には胃が痛くなるのだ。
持続的ではないがともかく痛い。
大正漢方胃腸薬という、市販の薬を飲んでいるが改善される兆候はない。
ところがつい先日、NHKの健康番組でまさに私の症状の改善について放送していた。
原因はストレスからくるそうで胃全体の働きが弱くなっているのだそうだ。
最近その症状に対して「機能性デイスペプシア」という名前が付いたのだそうだ。
改善薬としてアコチアミドという西洋薬か六君子湯が効果があるというのだ。
しかし、クリニックで診察を受けてその病名がついたわけではないので投薬してくれとは言えない。
いろいろ迷った挙句に行きつけの皮膚科の先生が漢方の投薬をするので訊ねてみた。
すると、どんぴしゃり私と同じ悩みを抱えていて六君子湯をのんでいるというのだ。
先生の場合は前立腺関係の手術をしてから、食欲不振の症状が起こったというのだ。
「君子湯を飲み始めてからだいぶ調子が良くなった」と言った。
「私にも処方してもらえますか」というと・・・
「とりあえずひと月飲んでみな・・・・」といった。
漢方であるから即効性は期待できないようだが、じっくりと付き合ってみたいと思う。
ただ、漢方の場合は食間に飲まなければならないので忘れる可能性がある。
けれどこの世の最大の楽しみの食欲が戻ってくるのなら絶対に忘れないぞ・・・
2021-12-22
かたくら通信・雑貨屋
シルクナード商店街昨日の続き・・・えびす丸のラーメンを食した後、片倉駅まで行って横浜線でお隣の駅の八王子みなみ野まで行った。
目的は年内に火を入れる予定の本焼きのための諸道具を買いに行ったのだ。
と言ってもさしたるものではなく、ごく日常的に使うものばかりである。
釉薬を入れるバケツの蓋とか、素焼きの作品の糸底の部分にかけるろうそく(溶かして使う)
トングもかったこれはろうそくを溶かした熱いボールをつかむため・・・意外と焼き物に使う道具は厨房で使うものを応用できる。
まずは駅隣接のホームセンターに行って蓋だけは買った。
それからモールの中にあるダイソーに行ってみた・・・いわゆる100均の店である。
ともかく安い・・・なんでこんな価格で売れるのだろうかといつも思う。
昨日もバケツを200円で売っていた・・・これは蓋の値段よりもずっと安い。
しかし、残念ながら蓋だけは売っていなかった。
トングもホームセンターの3分の1の値段である。
もちろん品質から言えばダイソーの方が落ちるけれど、焼き物に使うのであればそれで十分である。
ダイソーが値上げをしない限り老人の趣味生活も安泰だと思った。
思えばいつの頃か(多分2000年の小泉政権の頃だと思う)
街の商店街が壊滅的な状態となってしまった。
我が住む街にも「シルクナード商店街」というのがあって電気屋、本屋、花屋、レストラン、雑貨屋、薬屋、米屋、酒屋、肉屋、八百屋、お菓子屋となんでもそろっていた。
ところが近隣に生協のスーパーが出来て、まず姿を消したのは肉屋だった。そして魚屋が続いて、今残っているのは酒屋と花屋だけである。
代わりに、受験塾と保険代行会社、床屋、パーマ屋が入っている。
一番先にやめた肉屋はクリーニング屋に代替えをしたがつい最近店を閉めた・
これは日本全体の縮図のようなものでどの町に行ってもシャターを下ろしている店が多い。
すべてのモノを買いそろえることのできる大型店舗形式は便利そうに見えるがその多くは郊外にあるために車がないと買い物に行けない。
弱者や老人にとっては実に不親切な社会なのだ。
今回の買い物も昔なら歩いてシルクナードの雑貨屋でそろえる事ができた。
ダイソーは弱者の味方だとは思うが、これからますます年寄りが増える社会では不便な世の中となり、切り捨てられて行くのだろうか。
雑貨屋などという言葉もすでに死語になってしまったようだ。
2021-12-21
なごみ食堂・八王子ラーメン
えびす丸今日は朝から良い天気で初冬には珍しくポカポカと温かい。
タカコサンは朝からお茶のお稽古の準備で忙しそうだ。
思えば、もうすぐ78歳になるというのに頑張っている。
先週の水曜日には6名のお弟子さんを教えた。
コロナ下でもあるので密にならないように時間を空けて2組に分けてしていた。
大変なのは茶碗の用意で一人一人のための茶碗を用意して消毒していた。
さすがに木曜日はくたびれたらしく夕食が済むと居眠りをしていた。
今日は4名のお弟子さんで12時から始まった。
この時期の茶事は炉に炭が入るので家中に炭の香りが漂ってきてその匂いは嫌いではない。
ただ、感知器が一酸化炭素を感知して時々ブザーが鳴るので茶事の時だけは外す。
私は今日は透析がお休みなのでなるべくお稽古の邪魔にならないように静かにしていたが、午後からは出かけることにした。
まずはお昼はかたくら駅近くの「えびす丸」というラーメン専門店。
この店は結構お気に入りで魚介系ととんこつの合わせだしスープに醤油系のたれである。
八王子ラーメンの王道を行き、ラーメンとネギラーメン、チャーシュー麺のみで、八王子ラーメンの特色である玉ネギのみじん切りがトッピングしてある。
16号沿いにあり、駐車場が10台ほどは止められるので車で来る客が多い。
たいてい、店の前に行列ができていて30分ぐらいは待つことになる。
今日はめずらしく一人も並んでいなかった・・・しかし席は満席で5分ほどスープのにおいを嗅ぎながら待った。
以前だとラーメン屋の前に並ぶなどということは絶対にしなかったが、急いで何かをするわけでもないので漂ってくるスープのにおいも食べる前の前奏曲と思って楽しむ事にした。
実は、この店は基本は日曜日が休みなのだが、時々不定期で休む。
それにスープが無くなると店を閉めてしまうが、労働時間は11時から3時ごろまでだ」。
そこそこの味なので客がちゃんとついていて車で来るので休みでも余り苦情はないようだ。
どうやらご主人が腰痛持ちであまり無理はできないらしい。
従業員は雇わずきびきびとした奥さんと二人でやっている。
今のところ八王子で食べ歩いたラーメンの中ではこの店が一番。
偶然だが私のブログに何度も登場する日野市の南平体育館ちかくの「えびすや」と同じ屋号。
八王子の方は丸がついているけれど・・・二つの店は全く関係なさそうだ。
2021-12-20
かたくら通信・82歳
1940年・昭和15年・紀元2600年府中に住む友人からメールが入った事を書いたがお互いに来年は82歳となる。
昭和15年生まれで、西暦でいうと1940年、もう一つ紀元2600年。
いずれも区切りの良い年号であるが、時代的には太平洋戦争突入の一年前で、
世の中はそれなりに高揚していたようだ。
特に紀元2600年(神武天皇が国を開いてからの年月)ということで国を挙げての祝賀があったようだ。
同時代に生まれた人たちの名前にそれは表れていて紀夫、紀子が実に多く、実は私も紀夫が命名の候補だったようだ。
すざましいのはそのまんま、二千六百というなまえの人もいた。
フチムと読むのだそうだ。
今はやりのキラキラネームに比べれば驚くにはあたらない。
また紀元とは関係ないが戦争直前の雰囲気が表れている、忠紘とか八紘一宇からとった八紘君とか一宇君とかもいた。
ちょうど私が生まれた二年前には南京陥落があり戦勝ムードに浮かれて勝男、勝子名が多かったようだ。
もちろんその名残で我が生まれた年ににも「勝」は多い。
昭和15年生まれの我らは太平洋戦争の前に生まれたので、子供時代はまさに戦中、戦後であった。
この時代特に昭和19年あたりから戦後の22年ぐらいまでは飢餓の時代で食料事情が極端に悪く、白米を食べるなど年に数回しかなかった。
一番ひどかったのは昭和20年の8月以降で外地から引き揚げてきた人達や戦争から帰ってきた人達で人口が増え食べるものが枯渇した。
私は小学校に上がるまで夜尿症(いわゆるネションベン)があり毎朝地図を描いた布団が干された。
それは病気ではなく前の晩に食べたモノなのだ・・・少ないお米で腹を満たすためにはたいてい夕食は雑炊でみそ味だった。
一時は腹は満たされるけれど、中身が少ないので腹はすく、味付けはみそ味で塩辛いからのどが渇く。
水を飲むことによって腹を満たし、渇きも・・・けれど結果が夜尿症となる。
今思うとよくぞ生き延びた・・・それも81年もである。
80歳で亡くなったばあさんを「長寿」と讃えたがそれを越してしまった。
来年は82歳、オミクロンなどなんのそのもう少し生き延びて世の中がどのように変わっていくのか見てやろう。
まだまだやり残していることもあるし・・・
2021-12-19
武相街歩き・町田方面
貧血昨日は久しぶりに町田方面に行ってきた。
東急ハンズと小田急デパートに用事があった。
横浜線に乗って町田駅のすぐ前にハンズがあり、コンコースを歩いて5分ほどの所に小田急デパートがある。
横浜線町田駅と小田急線町田駅と間にコンパクトに街がまとまっていて、八王子に比べるとずっと便利である。
八王子はかっては大丸、西武、そごう等のデパートがあったが今はすべて撤退してしまってセレオというJRが主体となっているデパートのようなものがあるが品ぞろえが悪く欲しいものがほとんど手に入らない。
デパ地下なども本当に良いものは置いていない。
午前中から出かけて町田駅に着いたとき、ふとタカコサンのお茶のお弟子さんのご主人のことを思い出した。
彼は私よりも5〜6歳は年下らしいが、私と同じように糖尿から腎臓を悪くしていて心臓も要注意なのだそうだ。
透析までには至っていないようだが、奥さんの言うことはあまり聞かないそうだ。
そんな彼が、ひと月ほど前にJR町田駅の改札を通った時に突然倒れた。
運よく近くに看護師がいて的確な判断をして救急車を呼び某病院に緊急搬送された。
彼はその時のことを全く覚えていないで頭に大きなタンコブが出来たそうだ。
原因は腎性の貧血だそうでひと月後に来院するように言われた。
実は私も血圧やその他もろもろの数値はあまり問題はないのだが鉄分だけは不足で、貧血の症状が出るやもしれぬといわれている。
週に一度は鉄剤を含んだ注射を投与されているが数値は上がらないけれど幸い貧血症状はほとんど出ていない。
改札を通るときわが身にも同じようなことが起きるやもしれぬと不安がよぎった。
ゲンが悪いので町田での用事を早々に済ませて横浜線で橋本まで戻って遅めの昼食をとり八王子みなみ野まで行ってホームセンターで焼き物関係の道具を見た。
帰宅は四時ごろになったが無事に帰還できた。
と、夕食を済ませたころに府中に住む大学時代の友人からメールが入っていた。
彼も私のように多病息災・・・メールの内容は一昨夜私の夢を見たのだそうだ。
二人で合唱している夢・・・何となく気になってのメールだった。
お互いに来年は82歳になる・・・こんなに生きるとは夢にも思わなかったと記してあった。
2021-12-18
季節だより風だより・風の名前
風巻(しまき)予報通り、昨夜は荒れた。
寝付かれず何度も寝返りを打っていると、雨戸が揺れ動くのが分かった。
また地震かと思わず起き上がったが荒れ狂うような風の音だった。
何かで読んだことがあったが、このような風のことを風巻(しまき)というのだそうだ。
何か不吉なことでも起こるような勢いがあり凄風(せいふう)とも言うが、不気味であった。
先日は雨の名前のことを書いたが、日本人は風にもたくさんの名前を付けている。
この時期に吹く風の代表的なものは木枯らしだろう。
空っ風もよく使われる・・・我が故郷の甲府の街もこの時期になると空っ風が吹いた。
北の八ヶ岳の方面から吹いてくるので八ヶ岳颪(おろし)とも言った。
颪には地方地方で名前がついていて赤城颪、比叡颪、蔵王颪、伊吹颪、筑波颪等など。
去来の句にこんなのがあった。
寝られずや かたへ冷え行く 北おろし
今朝は空行く雲が吹き飛ばされたのか碧く碧く晴れ上がっている。
そして裏山の雑木林の枯れ葉がほとんど散り果てていた。
枯れ枝の向こうに青空が透けて見えて晩秋からいっぺんに冬が訪れていた。
身震いするほどの寒さだった。今日は外出の予定だったので一枚下に着こんだ。
朝食を済ませて10時のはちバスで駅に向かう。
大通りの街路樹の葉もすべて舞い落ちて枯れ枝がすっくと空にむかって伸びている。
青空に枯れ枝が映えて間違いなく冬の訪れを告げているようだ。
オミクロン株の脅威が言われ始めたが、街のデパートは賑わいを見せている。
ほぼ例年の歳末風景と変わりがない。
デパ地下などはクリスマスと歳末の商戦で行列の出来ている売り場もあった。
ソーシャル・ディスタンなど守っている売り場はどこにもなかった。
ただ、さすがにマスク不着用の人は見かけなかった。
願わくばこのままオミクロンも拡散しないで収束してくれるとよいのだが・・・
帰路に就いたのがちょうど3時過ぎで停車場でバスを待っている間、足元から冷たい風が入り込んで身震いがした。
この感覚、ずっと昔にあったように思えた。
まだトイレがくみ取り式だった頃、下の穴から吹きあがってくる風。
このような風にも名前がついていて・・・便所風というのだそうだ。
2021-12-17
学びの窓・陶芸
超過勤務現在私の所には2人、陶芸を習いたいという人が来ている。
一人は某区内の図工の先生で子供に教える作品の制作に来ていた。
しかし、陶芸の面白さにはまってすでに5年ほどになる。
もう一人は多摩地区の某小学校の副校長で、私が嘱託で勤めた学校で知り合った。
こちらはまだ3年ほどの修行だが時間が取れなくてなかなか来られない。
彼も無心でロクロに向かい合えるのが心の癒しとなっているようだ。
しかし、二人ともほとんど進歩がない・・・忙しすぎてなかなか時間が取れない。
私が教えられるのは土・日だけで、予定してもつぶれてしまうのだ。
特に副校長の方は不測のことがしょっちゅう起こり予定が未定となってしまう。
それでも何でもやめる気はないようで、ふた月に一度くらいはやってくる。
彼はロクロを回すよりもロクロからできた作品を削ることが好きみたいだ。
一歩間違うとすぐに壊れてしまう危うさに魅力を感じているようだ。
図工の先生の方は最近結婚したそうで、そちらの忙しさもあってか時間のやりくりが難しいらしい。
結婚準備のために半年ほど休んで、それまでに作った作品を本焼きしてないので、ここで一区切りつけたいと思うのだが・・・
いずれにしても私もそう長く元気でいられることはなので今のうちに伝えるべきことは伝えたいと思っている。
ところで二人に共通しているのは超忙しいということだ。
まず、電話では連絡が取れない・・・たいていメールかラインである。
副校長の方は毎日9時過ぎでなければ帰ってない。
それが、平日だけでなく土・日も同じである。
心配なのは過労死などという言葉がちらつくことだ。
以前から教員の時間オーバーについては話題となっているが一向に改善されていないようだ。
せめて土日ぐらいはきちんと休ませてほしいものだ。
彼は最近時間を作って地域の人とソフトボールのチームを作って練習しているそうだ。
学校とは全く違う世界に首を突っ込むのは大変いいことだと思う。
陶芸の方はほどほどでよい。普段たまっているストレスを発散させるのは大切なことだと思う。
二人とも年内には一度来るようだが、一年の思いを粘土とともに溶かしてほしい。
2021-12-16
透析日記・足の攣り
激痛走るいよいよ寒さも本格的となってきたようだ。
部屋を暖めてもなかなか眠りに入れない。
このところ導眠剤に頼ってしまって今週は日曜日から火曜日まで服用していた。
導眠剤も眠るタイミングを外すとかえって眠れなくなってしまう。
火曜の夜には10時ころ服用して床に入ったがどうしても眠れず2時ころにもう一錠飲んでしまった。
こうなると寝覚めが悪く午前中はボーっとしてしまう。
昨夜はこのまま導眠剤に頼ってしまうと悪循環になってしまうので、服用をやめて11時ころに床に就いた。
寝返りを何度も打ちながら1時ころに眠りに入ったようだ。
そして明け方に眼が覚めた・・・猛烈な足の攣りが起こったのだ。
12月に入って湯たんぽを入れて寝るようにしているのだがどうやら蹴飛ばしてしまったようである。
そして、足が布団からはみ出し冷え切ってしまったのだ。
かかとを中心にして脛と足とが直角となり思わず悲鳴を上げてしまうような痛みが襲ってきた。
足の攣りは以前には何度も起こっていたが、久々の激痛だった。
筋肉が硬直して曲げることができない。
どうにか起き上がって足に触ってみると死人のような冷たさだった。
冷えのために血液の循環が悪くなって筋肉が硬直してしまうのだ。
このような時は暖めるしか方法がない。
隣に寝ているタカコサンを起こして、彼女の使っている湯たんぽを回してもらった。
大体、攣りは30分もすれば収まるのだが・・・今回は少し時間がかかった。
タカコサンはどうにも助けようもないので足元に毛布を掛けてくれて寝てしまった。
攣りが起こるというのはまだまだ生きているという証かもしれない。
これからさらに寒くなるとまた起こるかもしれないが・・・透析をしていると仕方がないようだ。
予防薬としては漢方の芍薬甘草湯が効くといわれているが、発作が起こってからではどうにもならない。
実は透析が始まってから一番厄介なのは攣りとどのように睡眠に入るかなのだが・・・
2021-12-15
忘れぬ人々・天寿
生きる今年もたくさんの訃報ハガキが届いた。
親しかった人たちやその係累の方々。
ご家族のお悲しみは察して余りある。
我が家の関係では1月に甲府で町医者として開業していた義兄が無くなった。
実は一昨年に姉が無くなり後を追うような死であった。
姉は腎臓に悪いものが見つかり何度か手術をしたが帰らぬ人になった。
コロナの嵐が吹き荒れる前だったので何度か会ことができた。
義兄はコロナのさ中で家族すらも面会できなかったようである。
近しい人ではもう一人義弟の連れ合いさんの御母堂が無くなった…天寿を全うしたようだが残された人の悲しみはいかばかり・・・
訃報のハガキを見るとほぼ天寿を全うされた方が多いが、まだこの世にやり残したことがありそうな年齢の方々も少なくなかった。
さて、私であるがこの一年はコロナにおびえたりしたが大きな病気もなくすごせた。
秋になって新潟旅行を企てたり、千葉の教え子の所に家庭訪問にも行くことができた。
8月が過ぎたあたりから元気が出てきたようでヤル気も出てきた。
特に、山荘の工房を貸すことにして新しい展開が始まって私も何となく巻き込まれそうなのだ。
このところ休眠状態だった灯油の窯も使えそうである。
そうすれば作品の幅も広がるし面白い展開になりそうだ。
教え子や若い力に会って何かエネルギーのようなものを注入された気分である。
みなぎるような力は出ないけれど、もう少し陶芸を極めてみたいと思う。
ここで粘土を60キロほど購入した…一年分ほどありそうだ。
釉薬も新たに購入した…年度内にはお弟子さんの作品も含めて焼くつもりだ。
できれば新しい釉薬の調合もしてみたい。
どこまで続くかわからないが81歳でなければできないことに挑戦したい。
幸いタカコサンもお茶のお稽古を始めて、くたびれると言いつつも元気である。
2021-12-14
季節だより風だより・時雨の日
うしろすがた朝起きると身震いするほど寒かった。
窓を開けると今にも振り出しそうな空だ・・・予報では午後から雨と言っていたがもっと早く振り出しそうだった。
今日の予定はまずは焼き物の材料屋が9時半に粘土を届けに来る。
それから、先週貰った血液検査の結果をもってかかりつけのクリニックに行く。
雨が降るというので午後からの予定は入れておかなかった。
予定通り9時半に焼き物屋がやってきた・・・しかし予定よりも早く雨が降り始めた。
それから、雨の中をクリニックに行った。
初冬に降る絹糸のような雨・・・これぞ時雨というのだろう。
時雨についてはいろいろな名前がついているのに驚く。
まずは「初時雨」その年初めて降る時雨でいよいよ冬の到来を思わせる。
朝から降ってはやみまた降る時雨・・・朝時雨。
朝があれば夕もある小夜時雨、北風に乗って降る時雨の北時雨。
同じ北が付くが京都の北山の方から降ってくる時雨をいい晩秋から初冬にかけての京都の風物詩だそうである。
まだまだたくさんありそうだが、特に有名なのはさんさ時雨仙台地方の祝い唄として有名。
時雨とは関係なさそうなのに時雨の名前を冠しているものに「ハマグリの時雨煮」
夏まっ盛りなのに「蝉時雨」寒さなど吹っ飛びそうだ。
ところで、俳句の世界では秀句がたくさんある。
まず思い出すのは
「初しぐれ 猿も小蓑を ほしげなり」芭蕉
上州の空っ風の吹くころに伊香保温泉に訪れたとき詠んだ句だそうだ。
時雨には身内が引き締まるような寒さ厳しさがある。
それが蕪村となると
「蓑虫のぶらと世にふる時雨かな」
何となくユーモラスな感がある、
とどめは種田山頭火
「うしろすがたの しぐれていくか」
2021-12-13
かたくら通信・マスク文化
化粧術昨日立川に行くときに中央特快に乗った。
すると、乗客たちはすべて、マスクを着用していた。
それが当たり前の光景となっているのだが、生まれてこの方マスクなどしたことはなかったので初めのころはよく忘れていた。
透析の時など何度か家にとりに帰ったこともある。
家にいるときもわが家のマスク警察署長に何度も注意される。いつになったらマスクを外してもよい世の中が来るのだろうか・・・
おそらくマスク文化はこのまま定着してしまうのではないかと思われてならない。
間違いなくマスク効果はあったに違いない。
新しい株が次から次へと出てくる昨今このマスクと手洗いは定着してしまったようだ。
私は鼻が悪く長い間マスクをしていると息苦しくなるのだがそれは我慢している。
けれどマスクのメリットもたくさんあるようである。
顔が半分隠されているので、人相が分からない。
私のようなどちらかというと不細工な顔は半分隠されることによって、かなり隠されてしまっているようだ。
ただし顔半分が見えないことをいいことにして髭そりをしなくなってしまっている。
マスクをとると無精ひげである。・・・今までは2日に一度はそっていたものを・・・
女性の場合はどうやら目元の化粧が主流のようである。
眉をくっきりとさせて、めのフチには微妙に紅をさしている。
何か江戸時代の花魁の化粧に近いのではないかと思わせる。
「目は口ほどにものを言い」確かに別人のようだ。
私が会っている女性はほとんどはクリニックの看護師である・・・先週見慣れた顔が別人に見えた。
おそらくすっぴんで来てしまったに違いない。
恐るべし化粧術。
家に帰ってマスク署長に尋ねると。やはり今の化粧は目元に一番時間をかけるのだそうだ。
マスクのことを「顔パンツ」という向きもあるヨウダ。
何となく品がないがかくすということでは同じかもしれない。
来年の流行語大賞になったりして・・・・
2021-12-12
なごみ食堂・天ぷら
誕生日祝い「先生美味しい天ぷら屋さんが立川にあるので行かない?」
前から、八王子の別所に住むMさんから誘われていた。
聞けば店主の奥さんと友達で家族ぐるみの付き合いをしているそうだ。
Mさんについては以前から我がブログに登場してもらっているのだが、世田谷のW小で4・5・6年生と担任した人で、私が初任の秋川市の学校から転任していった時に教えた人だ。
彼女は転任のあいさつで私が朝礼台に上った瞬間から「この先生だけは担任になってほしくない」と思ったそうだ。
けれど皮肉にも私が担任となって、なおかつ4・5・6年と3年間も付き合う羽目になった。
そして、更に今に至るまで50年以上も付き合っているのだ。
今は娘のようなもので、ご主人は勿論、お嬢さんたちの成長も見守っている。
娘の誘いなので嫌も応もなく、ずっと機会を待っていてこの度(12月12日)連れて行ってもらうことになった。
場所は立川の北口で駅から5分ぐらいの所にあった。
隠れ家のような小さな店でちょうど伊勢丹と高島屋の間の路地のような所にある一軒家の二階だった。
急な階段を上ってドアを開くとカウンター席で8席だけの小さい店内だった。
店内にはご主人がカウンターの前に立って天ぷらを揚げその場でアツアツを出してくれる。
まずは私をご主人に紹介した。
「私の小学校の4・5・6年の時の担任の先生」
ご主人は一瞬驚いたような顔をした。
「えっ、今時小学校の先生とお付き合いがあるなんて…めずらしいですね。私なんか小学校の先生なんてみんな忘れてしまいましたよ」
房総の旅行の時も思ったがどうやら小学校の時の先生との付き合いがあるなど稀有のことであるらしい。
天ぷらはMさんが推奨してくれた通り絶品であった。
まずは車エビが甘い・・・生きたモノを剥いてそのまま揚げてくれた。
続いて銀杏、ナスと続きそこでスズキ、また野菜に戻ってサツマイモこれは格別美味しかった。
〆はかき揚げで天丼にしてくれた・・・Mさんは天茶漬けでこれもおいしそう。
一通りコースが終わって会計。
私の誕生日祝いとMさんがご馳走してくれた・・・有難い今回も教師冥利に尽きる。
2021-12-11
旅だより・余話
師弟関係1泊2日の旅を5日間にわたって書いてきたがそれだけ充実していたのだ。
読んでくださる方々もチョットしんどかったもしれない。
けれどまだある・・・ホキ美術館の予約が3時だったので、もう一つS君がリノベーションしたという店に立ち寄ることになった。
車で連れて行って貰ったので、場所は不明
軽量鉄骨で建てられた倉庫のような建物を住まいと古道具屋の店にリフォームしたという。
住まいは外観しか見ることが出来なかったが、古道具屋はまさにそれである。
店には所狭しと雑多にモノが並べてあって見ているだけで楽しい。
何でもありなのだ、西洋骨董から日本のモノ、店名は「ショートラーレン」というのだそうだが「古道具屋」の方がふさわしい。
タカコサンは掘り出し物を見つけたようだ。
柿の形をした塗り物で手のひらサイズの入れ物であった。
これを季節に合わせて、棗(なつめ)代わりにお茶の稽古に使うのだそうだ。
ちなみに棗とはお茶の粉を入れておくものである。
帰ってきてさっそく使ったが値段には見えない優れものだったようだ。
それはさておき、店に入った時にS君は店主に私が小学校の時の先生であると紹介してくれた。
するとチョット驚いたような顔をした。
30年以上も切れることなく付き合いがある事がどうやら稀なことのようだ。
そういえば、前日の上総一宮の海岸のレストランのディナーでも同じように紹介してくれて・・・オーナーが驚いたような顔をしていた。
古道具屋さんではいよいよ帰る時になって、店主が「チョット待って」と言って自宅に戻って何やら持ってきた。
S君宅と私たちに土産を持たせてくれた。
上野方面で有名な「オコシ」だった。
雷オコシとは違ってともかく固い・・・私の好きなオコシだった。
思わず「古代オコシ」だと言ってしまった。
「先生、このオコシを知っているんですか・・・嬉しいわ」と店主がいった。
店を出て、車の中で「オコシの方が柿の入れ物より高いんじゃないか」と言わずもがなの事を言ってしまった。
タカコサンに軽く睨まれてしまった。
実は・・・少し張り切りすぎてくたびれた。
ここにきてようやっと疲れが取れた。
お陰でこの1週間、導眠剤無しで眠ることが出来た。
2021-12-10
旅だより・ホキ美術館
超絶技巧絵画今回の旅の目的の一つに、「ホキ美術館」を訪ねることがあった。。
この美術館は保木さんという医療関係の会社の創業者がコレクションした絵を美術館として展示している。
この美術館はプライベートなものでホキさんが永年にわたって集めたモノを公開しているのだ。
私は今回で3回目の訪館である。
この美術館の特徴は超絶技巧の絵の展示である。
細密に書かれた絵は現実を超えている。
絵の対象は人物(女性のヌードが多い)風景、生物などなど・・・
被写体が今にも飛び出してきそうなみずみずしい作品である。
果物など手を伸ばせば掌に乗るようだ。
最初に見た時には、「写真」かと思ったが画家とモデルの濃密な対峙によって深い精神性が生まれてくるようである。
この美術館は日本超絶技巧で絵画に取り組んでいる画家たちの作品が網羅されている。
森本草介・・・ヌードを書かせたら第一人者である。
「この世で一番美しいのは女性像でその中でも特に裸婦は絵の題材としてこれほど魅力的なものはない」
と、言い切っている。
野田弘志は人物像の描写の大家でもあるが風景を書かせたらすごい。
今回も部屋いっぱいの北海道の湖の情景を描いていた。
五味文彦は静物画をよくする・・・本物を超えた果物や厨房の食器類は手にとってみたくなるようだ。
諏訪敦は父親の死を冷徹に見つめて身体が物体となっていく過程を描いている。
この美術館で私がもっとも好きなのは牛島ひろしの「5:55」という作品。
伏目勝ちな女性が描かれている・・・素人モデルさんで近くの公民館に勤めていて、勤務が終わってから5時55分までの約束で絵は描かれたそうだ。
清楚で美しい女性である。この人物の性格までが伝わってくる。
強固な意志を持ちモデルとしてはこの一作だそうである。
今は結婚して幸せな生活をしているに違いない・・・などと想像は巡る。
ホキ美術館は一昨年の千葉地方の水害で地下室の絵が損傷を受けたようだ。
早く修復された絵もまた見たいものだ。
かくしてハードとも思える房総の旅行は終わった。
いろいろな人とご縁が結ばれて楽しい旅行となった。
2021-12-09
旅だより・陶芸家
転身カフェ「夏風」で待っていたのは陶芸家のYさんだった。
彼とは今から40年ほど前に日野第六小で一緒であった。
私は40歳になったばかりで彼は30歳。
当時6小には彼と同年代の青年教師が5名ほどいて活気のある学校であった。
ある時、その5名が我が家に遊びに来た。
当時私は焼き物狂いとなっていて庭先に窯を置いたり、プレハブを建てて工房のようにしていた。
彼らはめずらしそうにそれらを見て行ったが、中に一人大学で陶芸を学んだ人がいて他の4人に説明をしていた。
彼等との学校での付き合いはその一年だけであったが、今もその時の人たちの何人かとは交友が続いている。
Yさんとはいったん連絡は途絶えたが、10年ほどして千葉に築窯して陶芸家として独立したと風の便りがあった。
彼は日野6小から八王子の僻地の小学校に転勤してそこで陶芸の道具一式と出会う。
そしてまずはオカリナの制作から入って、陶芸の面白さに目覚めていく。
その時私との出会いが引き金になったかどうか・・・
2年その学校に勤めてスッパリと教職を辞して西多摩で陶芸作家として有名な(レーガンが中曽根と会談した時にツボを献上した)岡野先生に弟子入りする。
それから6年修業をして千葉に穴窯を築いたというのだ。
その決断に驚いた・・・陶芸魅入られたモノが抱く夢を実現したのだ。
それから30年余、師匠譲りの信楽焼きの作風を継承しながら精進を重ねている。
彼の作品展は日野の豊田で開かれ新宿のデパートや銀座の画廊でも開かれるようになった。
素人から始まり40年の歳月を経て土と火とがコラボして出来上がった作品は重厚である。
初期の頃よりみているのでその進化の過程が分かる。
私なんぞは決して到達できない高みまで登っているようだ。
まだ70歳なのでこれかどんな風に化けるのかもう少し見てみたい。
来年は銀座の画廊で陶画展を開くそうだ。
茶陶のようなモノには手を染めないで花入れ、食器などを突き詰めているのが潔い。
彼の無謀ともいえる転身を支えた奥様に敬意を表する。
我が教え子達とは房総に行って知り合いお付き合いしているのだそうだ。
2021-12-08
旅だより・完全自給型
エコの家日曜日は9時にS君が迎えに来てくれた。
まずはほぼ完成した家を見て欲しいというのだ。
施主さんはすでに住んでいて(週末の3日間)滞在中なので了解を得ているという。
その土地の名からこの家は「榎本の家」と呼んでいた。
この家の特徴は電気、火力、水、そして排水などをすべて自分の家で賄っている。
完全自給自足型の家なのだそうだ。
榎本という所にはほとんど家はなくかつては里山だったそうだが建築計画が立ちあがった時には手入れがされぬ荒れ果てた土地だったそうである。
そこでまず着手したのは自然に任せていた樹々を伐採して里山の再生を準備した。
そして住宅地を決めて工事に着手。
家としてはゆくゆくは永住もありなのだろうが当面はセカンドハウスとして建てるというのが施主さんの意向だったようだ。
そこで思い切って完全自給自足の家を建てることになったのだそうだ。
まずライフラインであるが水は井戸を掘って賄う。
電力は太陽光発電・・・土地が広いので邪魔にならない。
そして火力は伐採した樹木で賄う・・・家の前にはたくさんの薪が積んであった。
家で使った後の生活雑排水は濾過して、農業用の水として使う。
雨水なども池に溜めて、同様に使う。
ちょうど施主さんがいたので中を案内してもらったが、壁は土壁でその上には漆喰は塗っていなかった。
予算に応じてとのことで将来的に白壁にしたければ素人でもできるそうなのだ。
暖房は薪ストーブでその上で煮炊きもできる。
こじんまりとした作りであるが窓からは切り取ったような景色が眺められる。
ただ、山の中の一軒家なので猪が出て来るそうである。
おそらく、この家を建てるのにも多くの人の力を借りた「結いの家」思想があったに違いない。
ちなみに、「S君」としていたが設計は「鈴木了建築設計事務所」である。
ネットで検索すると出て来るので興味のある方は見て欲しい。
「榎本の家」を後にして次に向かったのは「夏庭」というカフェ。
S君の奥さんのショウコさんが任されている古民家カフェである。
庭と建物が一体となって居心地の良い空間だった。
ここで、また日野6小つながりの人に会う。
2021-12-07
旅だより・完成間近の家
結いの家・サプライズミュージアムを出て次に向かったのは彼が手掛けている完成まぢかの家だった。
車に乗ってまた同じような道をたどり、半分近くは別荘地の網田という所だった。
引き渡しが来月末ということで、はほぼ建物の外観は出来上がっていて今は内装工事の若い大工さんと電気工事の人が入っていた。
大工さんはもうすぐ30歳となるそうだが、棟梁と呼ばれていた。
人の良さそうな面立ちで、昔の農夫のようないで立ちだった。
この現場が終わったら自分の家を長野の駒ケ根に建てるのだと言っていた。
この家のコンセプトはなるべく自然素材を使い外壁、内壁共に土壁である。
まずはコマイという竹を細かく割ったものを組みその上に荒壁と言って土に藁を混ぜて発酵させたものを塗っていく。
それから、もう少しきめの細かい土を塗り重ねるのだがその繰り返しが6回と言っていた。
勿論それらの工事は人の手によって行われるのだがまずは施主さんに手伝ってもらい、更にその知人をも巻き込んだ。
最終的にはネットで呼びかけて、作業に興味のある人を公募してその数が数十人に及んだそうだ。
昔、村々で行われていた「結い」という仕組みの現在版である。
施主さん一人の家ではなく多くの人のつながりによって家が見守られていくように思えた。
また、なるべく昔の工法を取り入れていてその土地の自然を生かすように工夫している。
例えば、家はちょっとした高台にあるのだが、家までたどる道をコンクリートにしないで土を固めてその上に木くずを敷いて水が地中にしみいるようにしている。
また庭先には何本か土管を埋めて雨水をあつめるようにして一か所に溜まり、外の側溝へと穏やかに流れていく。
もしかして、この雨水は池のようなモノになるのかもしれない。
この家が完成した時にはより多くの人が集まって「結いの家」となるだろう。
手間と時間がかかるけれど工事に施主さんを巻き込み多くの人の力が関わっている・・・今時希少な家となるであろう。
何年か経って家がどのように育っていくかをまた是非見たいと思った。
次は、もう一人の教え子のT君の家に訪問。
彼のことは我がブログでは何度か紹介しているが、30歳の時一年発起して栃木県の「茂木」で有機農法を学び「さいのね畑」を起業して宅配を中心とした販売を始める。
その後,諸所の事情があって上総一宮に移住する。
S君とは同窓だったがつながりはなかった。けれど、二人とも私の教え子ということで結びついていった。
T君はS君より2歳年下であるが、今は家族ぐるみの付き合いをしている。
今回のT家の訪問は一粒種のソウタロウ君の成長ぶりを見てみたいということだった。
前に会ったときはオンブにダッコだったが今は2年生になっていた。
なんだかひ孫を見るようでうれしかった。
そして、夜はS家とT家合同の食事会でS君がリノベーションしたというサーフィン会場の近くの🍴だった。
フランス・ブルゴーニュで修業したというシェフの料理に大感激だった。
「ル・ペパン」というレストランでガレットなるものが美味しかった。
そして、そして、最後にサプライズ・・・私の誕生日を祝ってローソクを灯したデザートプレートが出てきた。
有難くて涙がこぼれそうになった。
教師冥利に尽きる。
2021-12-06
旅だより・As It Is
ミュージアム9時に家を出て東京駅に10時半に着いた。
外房線の「わかしお」に乗り換えて、第一の目的地である茂原に着いたのが12時少し前であった。
今宵宿となるのが駅前のビジネス・ホテルでひとまず荷物を預けた。
駅前のロータリーには今回の案内役をしてくれるS君が待っていてくれた。
まずは昼食をとって彼が見せたいと言っていた「as it is」というミュージアムに向かった。
市街地を抜けて房総半島特有の風景の中を車は走っていく。
房総には高い山がなく農道のような車のすれ違いがようやっとのような道を走る。
やがて、山道に差し掛かり、こんな所にミュージアムがあるのか・・・というような所で車は停まった。
駐車場もコンクリートで固め区画がしてあるような場所でなく普通の空き地だった。
傍らに房総特有の真竹の小割を編み込んだ2メートルほどもある垣で囲われた土壁造りの建物があった。
とてもミュージアムとは思えない何の変哲もない古民家風建物だった。
道沿いに入り口があり民家の玄関のようであった。
中に入るとだだっぴろい空間があって外壁とおなじ土壁に今回の展示品であるお厨司がずらりと小から大へとかけてあった。
お厨司と言っても豪華に細工してあるようなものではなく、古びた板を組み合わせたシンプルなもので、昔はどこの家にもあった神棚のようなものだ。
説明なようなものは一切なく、ある意味では殺風景であった。
このミュージアム、東京の有名な骨董商が自分のコレクションを企画展示しているそうだ。
一通り見終わり、部屋の中央に立った時、何かずっと昔に感じたことがある感覚がよみがえってきたように感じた。
何とも懐かしい居心地の良さである・・・もしかして母親の胎内にいた時にはこんなような揺蕩い(たゆたい)だったのかもしれない。
部屋の東側にガラス戸があって、外に出られるようになっていた。
件の竹垣で囲われていて外の景色は見られなかった。
10坪ほどの庭になっていて落ち葉が敷き詰められていて、どこからか落ち葉焚きの煙が漂ってきていた。
これも久しく忘れていた匂いである・・・幼いころの記憶がよみがえってくるようだった。
この建物は「中村好文」という著名な建築家の設計によるものだそうだ。
彼は美術大学を卒業後、家具の製造を学び、独学で建築も学んで建築士の資格を取得したとのこと。
実は今回の旅行の案内役のS君も大学で哲学を学んだ後に、建築に興味を持ち建築士の資格を取ったのだのだそうだ。
もしかするとS君も中村さんのような道をたどっていくのかもしれないとふと思った。
2021-12-05
旅だより・房総1泊2日の旅
教え子の家庭訪問房総の上総一ノ宮、茂原、大網方面の1泊2日の旅から無事に帰ってきた。
旅程的にはかなりハードだったが教え子やその家族に迎えられ楽しい旅となった。
旅の目的は、7年程前に一宮で農業を始めた「さいのね畑」のTくんと、長柄町で設計事務所を立ち上げたS君のその後を訪ねて行ったのだ。
T君は、有機農法で作物を作り、宅配によって販路を広げている。
S君は、在来工法で古民家を再生させたり、竹を細く割ってコマイを網み土壁を塗っている。自然と一体となりながら里山の再生も試みてユニークな活動をしている。
二人とも地に足が付いた確かな活動をしていてすっかり房総の人となっていた。
特にS君が案内してくれた彼の幾つかの現場ではユニークな人にも出会うことが出来た。
詳しい報告は月曜日からのブログにて書いていきたいと思うが、私自身が、思ったよりずっと元気に行動できたのは嬉しい限りである。
10月の新潟行きに引き続いて一泊二日の旅だったが第三弾も考えている。
けれど、自分一人では無理でタカコサン無しでは成り立たない。
共に旅を楽しんでくれてありがとうである。
2021-12-04
旅だより*家庭訪問
千葉ほうめん今日は千葉の茂原に来ている。
お教え子が二人この地に根付いて立派な仕事をしている。
一人は農業一人は設計士でそれぞれの仕事ぶりをみせてもらいにきた。
30数年ぶりの家庭訪問である。
夜は私の誕生祝いを一宮の海岸近くのレストランでひらいてくれた。
思いもしなかったサプライズに感激。
詳しくは月曜日以降のぶろぐに…
2021-12-03
お好み回り舞台・哀悼・中村吉右衛門
鬼平犯科帳11月28日中村吉右衛門が逝去した。
私はタカコサンほど歌舞伎には詳しくないけれど吉右衛門さんについては若いころから知っていた。
私よりも年齢は4歳ほど下であるが、父親の先代松本白鸚が松竹を飛び出し東宝歌舞伎なるものに出ていた頃も覚えている。
その後吉右衛門の名を残す為には松竹に戻る方が良いと考え単独で戻り下積みも経験する。
彼の名を一躍有名にしたのはなんといっても鬼平犯科帳の長谷川平蔵役。
平蔵を演じたのは実父の松本白鸚、萬屋錦之助、丹波哲郎などがいるが吉右衛門の平蔵が当たり役で27年間も続いたという。
吉右衛門が演じた平蔵を支えた人たちもまた良かった。
先にあちらに逝ってしまった、高橋悦史、江戸家猫八(相模の彦十)、蟹江敬三(小房の粂八)など・・・きっとあちらで再開を喜んでいるかもしれない。
また、鬼平のシリーズで欠かせないのは同心役の木村忠吾・・・尾美としのりが演じたがこの役で彼はブレイクしたようだ。
女優陣ではおまさの梶芽衣子、そして奥方の久栄の多岐川由美、年々年老いていく姿も年相応に演じてよかった。
吉右衛門の鬼平は第四シリーズで幕を閉じたがこれから先、誰が演じても超えることはないだろう。
ただ、時代劇チャンネルなどで繰り返し放送されているのでいつでも吉右衛門版の鬼平には会えるというものだ。
歌舞伎役者としての吉右衛門については論じるほど舞台を見ているわけではないが、その存在感には圧倒された。
歌舞伎役者の中では吉右衛門が一番好きだった。
彼の演じた「俊寛」今でも心に深く残っている。
コロナ禍で歌舞伎座にも久しく行くことが出来なかったが誠に残念・・・ご冥福を祈る。
これは蛇足であるが、昨日訃報を知らせるニュースの中で吉右衛門が岳父に当たる尾上菊之助が涙ながらにインタビューに答えていた。
その折、ニュースを読んでいた某テレビ局の女性アナウンサーが尾上(オノエ)というべきところをオノウエと間違えた。
誰かが気が付いて訂正させたが引き続き二度ほど間違えてしまった。
おそらく横文字の原稿には慣れているのだろうが・・・日本の伝統文化の歌舞伎役者の名前くらいはちゃんと憶えていてほしい。
2021-12-02
かたくら通信・聞き耳ずきん
年寄り話ひと月ブリの散髪に行ってきた。
予約時間は2時で昼食をすませて12時45分のはちバスに乗った。
北野駅までおよそ10分ぐらいで着くがこの時間帯だと乗客ほとんどお年寄りである。
車中では顔見知り同士がおしゃべりをしている。
大体が自分の健康話であるが聞き耳を立てていると面白い。
まずは対面に坐っている70代初めぐらいの男女。
「ペースメーカ入れたんですか」男の人が聞いた。
「去年の今頃、女子医大に入院して無事に生き返りました」
「女子医大ですか・・・私もそこに入院しました。私の場合は気管支狭窄の手術で7時間もかかりました。」
「それは大変でしたね。7時間は大手術でしたね・・・」
「声帯も切除してしまったので今は人口の声帯をつけているのでこんな声になってしまいました」
「そんなことが出来るのですね・・・今の医学はすごいですね。私だってそのままほおっておいたら今はここにいませんよ。」
「でも、こんな声になって一番つらいのはカラオケが出来なくなってしまったことです。」
「私も息が切れてカラオケはご無沙汰になってしまいました。」
「ご主人もカラオケは好きでしたね・・・」
「私は主人に連れられて行っていたのですが、3年前に亡くなってから、心臓のこともありますが一度も行っていません」
バスは駅の南口で停まって、二人は降りていった。
私は、時間があったので駅の北口まで乗っていくことにしていた。
すると、新しいお客が二人乗ってきた・・・男女二人だった。男性は年の頃なら70代半ば。
彼等も顔見知り同士だったが、男の方は時々はちバスで一緒になる人で、この所、彼の靴の底が割れたいたのが気になっていた。今日はピカピカの革靴を履いていた。
席に座ると女性の方が話しかけたが男性の耳には声が届かなかったようだ。
「耳が遠くなって聞こえないんですよ。特にマスクをしている声は聞こえにくくてね」
女性はマスクを外すこともできず黙ってしまうと・・・
「コロナになってから聞こえが悪くなって、家でテレビの音もほとんど聞こえません。補聴器を使うと雑音が聞こえて頭が痛くなります。」
私と悩みは同じだが・・・私が最近買った集音器が具合が良いので教えてやろうかと思ったけれど、話に割り込むわけにもいかないので黙っていた。
やがてバスは北口に着き、私は降りた。二人はその先にある温泉施設に行くらしい。
2021-12-01
来し方の記・81歳の現実
子ども返り・健忘傘寿からいよいよ卒寿を目指すにあたって、できるだけ今覚えている過去のことを記しておこうと「来し方の記」なる項を起こした。
年内くらいにポツポツ思い出して書いておこうと思う。
ところで、81歳の現実が出発点となるのでまずは昨日のこと。
誕生日だからと言ってさしたることもなかったが、教え子の何人からかメールや電話で「おめでとう」を言ってもらった。
わが家では特にイベントのようなことがあるわけでもないので、「一人誕生会」でもやろうかと、お昼を気張ってウナギを食べに行くことにした。
その旨をタカコサンに告げると、「私も同行してあげる」と、のたまわった。
となると、会計は・・・「おごってあげてもいいよ」と言ってくれたが、この所モノ入りが多くタカコサンの経済はひっ迫しているようなので普段のお礼も兼ねて私がおごってあげることにした。
すぐにうなぎ屋に電話して予約を取ってくれた・・・今はまだコロナ禍にあるので,うなぎ屋は限定した人数しか受け付けないのだそうだ。
ちょうどタイミングよく12時の枠が取れて・・・11時40分のバスで行った。
さてそこで、久しぶりの二人での外出だったので・・・交通指導が厳しい。
まずは私が歩道の道路に近い左側を歩きすぎると注意された。
そして、車が通っていないので信号無視をしたらまた叱られた。
「あなたは交通規則の無視がはなはだしい。いつか大きな事故に遭うわよ」と言われた。
注意の連続でうなぎ屋に入ると、マスク問題が起こった。
すぐにとって、おしゃべりが過ぎるというのだ。
ともかく会話の半分以上が注意事項だった。
どうやら、わたくしは子ども返りをしているようだ。
加えて健忘も始まって言われたことをほとんど忘れてしまう。
おなじことを何度も聞いたり同じ話題を繰り返しているようだ。
今週の土曜日には千葉に小旅行に行くのだがその日程の確認事項を念押しされたのにほとんど忘れている。
当日乗る電車について「9時半発の特別快速だからね」と言われたのに3回聞いたそうだ。
これからの一年が思いやられるけれど、まだ一人でクリニックだけは通うことが出来る。
お昼のしたくも私がしている・・・・
まだまだ大丈夫と自分を信じたい。