2022年 8月の過去ログ

2022-08-31

かたくら通信・1945年7月7日

甲府空襲の記録








8月15日のブログに「8月15日の卵」という物語を載せた。
これは5年越しに書いている物語の一部である。
物語は1945年3月から1946年3月末までの一年間を描こうとしている。
物語の骨子はすでに出来上がっているのだが、作品として仕上げるには何度も書き直しをしている。
物語の舞台は我が故郷甲府で19454年7月7日の「七夕空襲」が丁度物語の中心となる。
私はこの空襲の時は4歳8ヵ月で、直接被害には会ってはいないけれど、その夜のことははっきりと記憶の中に刻まれている。
同級生の中には火に追われて甲府の郊外に流れる荒川に逃げて行ったという人もいる。
私よりも何歳か上の人になると、はっきりと記憶に残っていてその様子を取材させてくれた人もいる。
それにしても空襲から77年の歳月はその記憶を風化させてしまい語ってくれる人のホトンドが旅立って逝ってしまっている。

たまたま、甲府市が今から52年前(昭和45年・1970年)に「甲府空襲の記録」という本を発刊した。
470ページに及ぶ大著で当日の事をあらゆる角度で網羅し記録している。
甲府の空襲を語るにはこの本は第一級の資料である。
伝手を頼って期限付きで借り出すことが出来て、いま読み込んでいるところである。
本の構成はまず、戦災の資料の写真集がある。
白黒写真で当時の印刷技術のためか判然としない部分もあるが瓦礫と化した甲府の町の様子が十分に伝わってくる。
そしていよいよ本編となるが、第一篇は甲府空襲前後、本土空襲の中の甲府空襲、「座談会」甲府空襲を語ると続く。
第二編はいわゆる体験記が綴られている。
小学生から成人男女老人まであらゆる階層の人たちの回想記でちょうど空襲から30年経ったときの記憶が語られている。
実に90余名の人たちの手記で最後に太宰治と石川達三の文章も載せられている。
特記すべきは「学童疎開の記録」が付記されていて東京の月光原国民学校の先生生徒の手記も寄せられている。
第三篇は資料編で戦災焼失区域図、地区別犠牲者数、アメリカのこの日のニューヨークタイムズが報じた甲府空襲に関する記事も載せられている。
資料中で最も衝撃を受けたのは全国都市被ばく一覧である。
北海道から鹿児島までほぼ全県にわたって被曝している。
その数が160都市にも及ぶのだ・・・市と名の付くところはほぼ全部被曝している。






yodaさんの投稿 - 10:50:15 - - トラックバック()

2022-08-30

かたくら通信・2019年8月26日

無言館








先週土曜日の日テレドラマ「無言館」の反響は大きく、日曜日にはたくさんの人が来館したそうだ。
実は私は3年前の8月の終わりに無言館を訪れている。
その時には来館者は私たち夫婦と車で同行してくれたO君だけだった。
館内はひっそりと静まり返り、一つ一つの絵と無言で対面することが出来た。

この時の上田行きの目的は、上田文化センターで開催された「村山槐多」展を観る事だった。
O君は日野の南平小で受け持った人の弟で、小学生の頃から何故か私になついていた。
O君にとっては村山槐多も無言館も初めての出会いで軽いカルチャーショックを受けたようだ。
特に、無言館についてはこのような絵を集めた美術館があることが驚きで、帰りの車中でも「言葉少な」になってしまった。
今回のドラマの主人公である窪島さんは両親が靴磨きをしていていつも指先を真っ黒にしていると言っていたが・・・実は小説家水上勉の実子で、水上が生活に困窮していた時に養子に出されたのだ・・・後に、窪島さんはそのことを「父と子」という小説に書いている。

それはともかく彼もすでに80歳となっているそうだ。
今回のドラマのようなことがない限り無言館を訪れる人は少ないようだ。
客観的に見て個人での運営は苦しいに違いない。
この先集められた700点もの絵がどうなるのかは気になる所である。
彼は「官」への絵の移譲は考えていないようだ。
官となると、祝日などに日の丸が掲げられる可能性あることが嫌なのだそうだ。
無念の思いで死んでいった画学生に日の丸はないであろうと・・・
私にもその感覚は何となくわかる。

私事となるがこの信濃の旅から帰って具合が悪くなり、東海大に入院して透析に至ったのである。




yodaさんの投稿 - 17:15:15 - - トラックバック()

2022-08-29

季節だより風だより・秋到来

安眠








昨夜は久しぶりに安眠できた。
身体が秋の到来を感じたのだろう。
夏の間はクーラーのタイマーが切れる2時ころに必ず目が覚めた。
そこで、夏掛けの布団をもって階下に降りてリビングのソファーで寝る。
リビングの方が幾分涼しいことと、ソファーの皮の感触がヒンヤリとしているのだ。
このソファーは家を建て替えた時に購入したもので、布製だったものを本革に張り替えてもらったものだ。
身分不相応の気もしたけれど、25年経った今でも古びた感じがしない。
しかし、寝るためのソファーではないので幅は55センチで我が巨体が横になるにはかなりせまい。
けれどよくしたもので、その幅の中に横向きに身体を横たえる。
そして、今迄に一度も床に転がり落ちたことはないのだ。
さすがにソファーで寝られる時間は2時間ぐらいで、夜明けとともにまた夏掛けを持って二階のベッドに戻っていく
昨夜は夢遊病者のようなその移動はなく、朝までぐっすりと眠ることが出来たのだ。

秋到来と言えば、吹く風、空の高さ、悠々と動いていく雲などにその季を感じる。
初秋のこの時期には意外と咲く花が少ない。
唯一咲き誇っているのが「百日紅」で夏の初めの頃から随分と頑張っている。
我が家からお隣の家の裏庭が見えるがちょうど10日ほど前から白百合が咲き始めている。
ご主人によると近くの山からとって来て、植えたところ、今年は増殖したのだそうだ。
お隣の家よりもわが家の方が楽しませてもらっている。

今年の夏はことのほか暑かったのでほとんど出かけなかった散歩をソロソロ秋風に誘われて再開しようと思っている。
あと1週間もすれば散歩コースの萩の花が咲きこぼれるだろう。










yodaさんの投稿 - 09:43:55 - - トラックバック()

2022-08-28

お好みテレビ館・無言館

戦没画学生慰霊美術館







昨夜、日本テレビの「24時間テレビ愛は地球を救う」という企画のスペシャル番組として「無言館」が放映された。
数日前から何人かの人からこの番組があると知らせがあり、昨夜も教え子からメールが入った。
私は無言館については浅からぬご縁があって設立される前からずっと関心を持っていた。
設立に尽力したのは野見山暁治という画家と窪島誠一郎という「信濃デッサン館」の館主だった。
二人が戦没画学生の絵を集め始めたころ、NHKの番組でも取り上げられその経緯を見守っていたのだ。
野見山さんは洋画家としては有名な方で学徒として出征するが生きて帰ってこられた。
しかし、仲間の多くが画業半ばで戦死したことを思い戦後、戦死した人たちの絵を集めることを思い立つ。
窪島さんは彼の美術館で野見山さんが個展を開いた縁で絵の収集に付き合わされるが、当初はあまり気乗りがしなかったようだ。
しかし、多くの遺族を訪ね絵を寄託されるうちに自分の力で彼らのための美術館を開くことを決意する。

番組は実在の人物を寺尾聡と浅野忠信が演じているがほぼ事実に基づいて二人が美術館設立に至る心の推移を演じている。
番組はドラマ仕立てとなっていて、それぞれの遺族のエピソードを積み重ねているがその想いが観るものに素直に伝わってくる。
このドラマの監督、脚本が「劇団ひとり」というお笑い系の芸人だそうだ。
見事にドラマを2時間にまとめ上げて戦没画学生慰霊美術館「無言館」開館のクライマックスで感動を呼ぶ。

私は拙著「春さんのスケッチブック」という作品で無言館を舞台にした。
この作品は第55回読書感想文の課題図書に選ばれ多くの子どもたちが読んでくれた。
その年と翌年にわたって無言館を訪れた子供たちが多かったとも聞く。





yodaさんの投稿 - 12:15:52 - - トラックバック()

2022-08-27

かたくら通信・ギョッ

着物柄








ちょうどひと月経ったので、意を決して散髪に行ってきた。
ここにきて暑い日が続き炎天下を駅から床屋まで歩くのはシンドイ。
私の床屋行の愉しみは近くにあるラーメン店の「えびすや」に寄ることだ。
床屋の予約は2時にして1時頃にラーメンを食べてから行くという算段だ。
しかし、この3か月ほど店を休んでいて、算段通りには行っていない。
今回こそはと、期待して行ったが、やはり店は開いていなかった。
店主の張り紙によるとラーメン研修のためと言っているのだが・・・私は今まで通りの味で良いと思っているのだがさらにラーメン道を究めたいのだろうか。
仕方ないので「えびすや」の近くにできた中国人のやっているという本格中華の店に行ったが・・・ラーメンはスコブル付きに不味かった。
床屋のマスターにいきさつを話したら、次回から予約の時「えびすや」が開いているかどうかを知らせてくれることになった。

2時から3時の1時間で頭は仕上がったが、また同じ道を歩いて帰るのもしんどいので市内の循環バスを利用した。
好都合にバス停が床屋の真ん前にあるのだ。
3時ちょっと過ぎのバスに乗って床屋より一駅先の高幡不動行に乗った。
座席はほぼ埋まっていて次の南平体育館前という停留所に来た時、年の頃なら30チョイ過ぎぐらいの着物姿の妙齢なご婦人が乘ってきた。
バス停での待ち姿が小粋に見えた・・・着物はグレーの地に黒で模様が入っている。
帯は黒字のモノを締めていて頭には簪を刺していた。
そして、乗車してきて私が座っている脇に立った。
見るともなく着物の柄を見ると・・・・上から下まで、骸骨の模様が散りばめられていた。
正直、ギョッとした。
けれど、リアル骸骨ではなくチョットユーモラスな骸骨達だった。
中にはお酒を酌み交わしている者もいて徳利が転がっている。
この着物でどちらにお出かけなのだろうか・・・まさかお墓参りでもあるまい。

家に帰ってさっそくタカコサンに報告すると・・・
「洋服ではその手の模様はあったけれど、いよいよ着物柄にも進出したのね」とこともなげにいった。

80ジジイは世の中の進化についていけない。







yodaさんの投稿 - 18:02:23 - - トラックバック()

2022-08-26

おもいで食堂・寿司

基準








先日、美家古寿司のことを書いたが、東京にきてからの寿司屋の原点のような所だ。
それ以前は甲府で食べた寿司ということになるが、忘れようとしても忘れられないのはわが家の近くにある「魚宗」の寿司である。
我が家ではハレの日にはここから出前を取った。
特にネタがよく美味しいというわけでもないが、ともかく一個一個が大きいのだ。
シャリが普通の寿司屋の倍以上ある・・・当然、ネタも大きい。
そしてネタであるが、一応、すべて細工がしてある。
マグロは醤油につけてあり、イカは煮てある、貝類もしかり、光物もちゃんと酢で〆てある。
特に美味しいというわけではないがその大きさに圧倒される。
小学6年の時、誕生日に何でも食べたいものをとってやると言われて今寿司を2人前取ってもらった・・・結果腹一杯となったが、翌日見事に腹を壊した。

上京してきて結婚して、少し余裕が出てきたところで、グルメ本を片手に行きついたのが浅草の美家古寿司だった。
そのころ先々代の親方の内田栄一さんが板場に立っていて握りながらいろいろなうんちくを聞かされた。
江戸前のネタに細工を施すのは冷凍技術が発達していなかったので、ネタを長持ちさせるために工夫されたのだということ。
マグロの大トロなどが今は珍重されているが・・・あれは油っこくて下の下で捨てていたとの事・・・今はお客の要望があるので仕方なく出している。
寿司を握る時に山葵を使うのは山葵には抗菌作用があるからで「私は旅行するときは必ず山葵とおろし金を持っていく」と言っていた。

弁天山美家古寿司を食べなくなって久しい。
おそらく先々代からの味は踏襲されているはずである。
このところ寿司を食べる楽しみが失せてしまっているので、原点に戻った私の味覚を試してみようと思っている。

もし、美家古寿司の味に異変のようなものを感じたらこれから寿司を食べるのをあきらめようと思っている。
コロナと暑さが遠のいたら一度出張ってみようと思う。



yodaさんの投稿 - 09:31:21 - - トラックバック()

2022-08-25

透析日記・味覚異常

塩味








水曜日は担当医師が福生の病院から来ている。
M先生と言い年の頃は40歳前後で物腰の柔らかい人だ。
もともとは東京医大系の八王子医療センターに居たそうだ。
こちらが困っていることがあると誠実に対応してくれる。
身分としてはアルバイト雇用のようだが信頼がおける。

まずは近々の悩みとして相談したのは味覚異常のことだった。
コロナ騒ぎが始まってしばらくたってからそれは起こった。
塩味に対して過剰反応を起こしてショッパイよりも苦いを感じてしまうのだ。
味覚異常についてはコロナにかかった人に起こる症状と聞いていたのでしばらくは黙っていた。
しかし、コロナにかかった兆候はほとんどない・・・熱も咳も出ず、ごく普通に透析に通い今に至っているのだ。
そこで、クリニックの院長に相談したところ、「味覚異常と大きな声で言わないように」とたしなめられてしまった・・・何となくうやむやな答えになってしまった。
それからも一向に異常はおさまる気配がなかった。
そしてさらに味の記憶がことごとく裏切られていくように思えた。
かって食べたときこんな味がした・・・それがほぼ打ち消されてしまうのだ。

80歳を過ぎたジジイが食の愉しみを奪われてしまったら何が残るというのだ。
特に顕著なのは「お寿司」が全く美味しくない。
握りのネタが美味しそうに見えてもシャリでほぼがっかりしてしまう。
酢と塩のコラボが口に合わないようで醤油が追い打ちをかける。
大好きなトンカツにも同じようなことが起こっている・・・ソースが合わない。
トンカツの食べ方として辛子と塩で食べるのも好んできたが、それも全く駄目である。
そこで、M医師に相談したところ、薬の見直しをしてみる事になった。
まだ結論は出ていないが、ナントカなってくれるといいのだが。

仕方ないので過去の食を思い出しながら妄想で食欲を満足させることにしている。
幸い、甘味に対しては今のところ異常は起こっていない。






yodaさんの投稿 - 16:49:29 - - トラックバック()

2022-08-24

妄想旅行。浅草

弁天山美家古寿司








Nさんのように腎移植の望みのある人は生きる光明のようなものがあるが、私のように高齢で手術に耐えられるかどうか分からない身にはその選択肢はない・
透析を中止した日が死の覚悟の日で何の選択肢もない。
死ぬまで、月・水・金を繰り返さなければならないわけだ。
当初は絶望的な気持ちになり・・・今まで十分に生きたのでここらで終止符を打つのも良いかなと思ったものだ。
しかし、残された人のことを考えるとそんなことも言っていられない。
以前、いよいよ危ないとなった時に・・・生きていてくれるだけでいいと言われた。
どうやらタカコサンにとって私はまだ価値のある人なのである。
もう一つ・・・ずっと温めてきた甲府を舞台にした作品が未完である。
資料もそろいあとは執筆だけ・・・これはあちらに行く前にどうしても完成させたい。

このところ埒もないことを考えている。
月水金は透析だが火木土日は休みであるからそれを上手に使いたい・・・
火木については次の日に透析があるのでまとまったことはできない・・・近隣の町田に行ったり、橋本に行ったり、透析以外のクリニックに通ったりする時間に当てている。
そこで、有効活用ができるのは土日である。
今までも土日を使って小旅行を試みた。
千葉への一泊旅行、新潟の美術館巡り・・・結構充実していたが、八王子から出かけるとなると移動に半日取られてしまった・・・もう1泊できればゆとりはあってもっと充実した旅ができるのに・・・・
そこでNさんに教えてもらった、金曜日の午前中に透析を済ませて、金の午後から出かけて2泊の旅にする・・・さっそくやってみようと思う。

とりあえず、浅草にいって、水上バスに乗り、戻ってきたら観音様にお参りする。
泊まりはちょっと良いホテルにして・・・浅草ビューホテル当たり・・・
夜の食事は正調の江戸前の「弁天山美家古寿司」に行く。
ここは全てお寿司のネタに細工がしてある。
先先代の内田栄一親方の頃に何度か通って、江戸前の寿司の講釈を聞いた。

今はどのようになっているか分からないが・・・味は継承されているのではないか・・・
私の寿司の原点である。
私の味覚が壊れているか・・・試してきたいと思う。




yodaさんの投稿 - 10:01:54 - - トラックバック()

2022-08-23

透析日記・先輩

旅の仕方








透析の先輩であるNさんご一家に山荘に来てもらっていろいろと教示を受けた。
Nさんは年齢については定かではないが、50前後というところらしい。
透析歴は私よりも半年ほど早いそうだ。
同じ東海大で同じ医師に診察を受けていて八王子腎クリニックに送りこまれた。
透析に至る原因はやはり糖尿病だったそうである。
透析の2〜3年前から覚悟はしていて、シャントという針を刺す血管は前から作っていたようだ。
透析をせざるを得なかったのは・・・旅行中に具合が悪くなり、青森の病院で初透析をしたのだそうだ。
透析をせざるを得なかった直接の引き金は鎮痛剤の飲みすぎであったと・・・
以前から肩が痛くて痛みを抑えるためにロキソニンを服用していて、それが限度を超えてしまったとの事。

Nさんは将来的には腎臓移植を考えているようで、それが一つの希望となっているようだ。
日々の生活は職を持っているので透析の日も午前中は働いて午後から治療を受ける。
火・木は透析は休みであるが仕事はする。
休みの日となるのは土日だけであるが、その休日をうまく使っているようだ。
気分転換の小旅行である・・・ご夫婦で運転をするので土日は行ける範囲でいろいろな所に行っているそうだ。
つい最近は富山まで行って一家で釣りをしてきたとの事。
その前には、息子さんのために信州上田まで行って真田の家紋、六文銭の入った当地に行かなければ買えないTシャツを買ってきたとの事。
昨年の正月には出雲大社にお参りして、足立美術館まで足をのばした・・・
2泊3日の旅だったようだが、金曜日の透析を午前中に済ませて、午後から出かけて1日出雲を楽しんだようだ。

私は車はないのでそのような荒業は出来ないが金曜日の午前中の透析はいいかもしれない。
金曜日の午後に目的地まで行って、土曜日を1日フル活用・
なんだかこれから楽しみが増えたような気がする。

Nさんと話して分かった事なのだが・・・私は前から「友達の法則」というのを立てていた。
それは、嫌いな人が共通だと、友達になれるということだ。
クリニックで絶対に針を刺してほしくないと思っている人が全く同じだった。




yodaさんの投稿 - 17:36:29 - - トラックバック()

2022-08-22

八ヶ岳南麓だより・築32年

維持管理







今回の八ヶ岳行きの主たる目的は落雷によって壊れた給湯器の取り換えであった。
業者と連絡を密にしていたおかげで無事取り付けも終わり、土曜の夜からお風呂にも入れるようになった。
けれど、取り替えた器種は追い炊きが出来ないタイプで以前のモノより機能は落ちる。
しかし金額は半分ですんだ。
考えてみたら、保険ですべて充当できることが分かったので、わざわざ安いものにしなくてもよかったのだが、今回付けたモノの方が操作が簡単で冬の水抜きも楽であると言われたのだ。
また、以前と同じタイプだと在庫がなく取り付けに時間がかかるとも言われた。
これから先どのくらい山荘を維持できるか分からないのでシンプルでよいとなったのだ。

と、昨日の朝、近隣の不動産業者がやってきて土地と建物を含めて買いたいと言ってきた。
何度もしつこく訪ねてきたらしく、見積もりだけでもしたいと言ったが断わった。
実は、お隣でも同じように勧誘にきて、査定だけしてもらったところ、かなり安く見積もって・・・どうやら買いたたく積もりだったようだ。
我が家の場合は土地は350坪ほどで、建物は母屋と工房と二棟建ってっている。
竣工して今年の10月で32年となるがその間に大きな破損などはなかった。
設計は八王子の番匠設計で神社・仏閣、数寄屋建築もできる特色ある設計事務所だ。
設計士の小町先生と意気投合して、その後、八王子の家の設計もお願いした。
小町先生は御年96歳となるがまだまだ矍鑠としておられる。

山荘は和洋折衷で、外壁は唐松材、内側の壁には漆喰・・・天井などはベニヤである。
塗装などは最小限にとどめ、32年たって、外壁の唐松材が良い風合いとなってきた。
業者の誘いに乗って売ったりしたらおそらく建物は今風に建て替えらえて、年月をかけて育てて来た風合いなど微塵もなくなるだろう。
しかし、私もタカコサンもあと何年通えるか・・・息子一家に託したいと思ったが岐阜を拠点としているので維持管理は難しいと言われてしまった。
結論は私たち夫婦でいかようにもしてくれと・・・

早晩手放すことを考えなければならなくなるだろうが・・・85歳ぐらいまでは頑張ってみるつもりである。

昨日は午前中タカコサンのお弟子の姉妹が来て点前手前というお稽古をして行った。
緑に囲まれてのお茶も良いものだ。




yodaさんの投稿 - 09:43:19 - - トラックバック()

2022-08-21

季節だより風だより・晩夏の花火

行く夏を惜しむ








Nさん一家が予定通りやってきた。
八王子を2時ころに発って3時半には山荘の近くまで来たそうだ。
まずは山荘で一休みしてもらった。
あいにく雨がぱらついていたが大降りにはなっていない。
家の周りは木立に囲まれているので場所を選べばそんなに濡れることはない。
息子さんは6年生にしては幼い感じを受けたが初対面に緊張している様子だった。
たまたま高校の後輩のM君が勝沼に寄ったからと、ブドウを一籠前の日に玄関の脇に届けておいてくれたのでお茶の代わりに供した。

ブドウを食べ始めたころから緊張もほぐれたらしく、タカコサンとの会話が成り立つようになった。
来春、中学受験をするとかで、塾通いに1週間のほとんどが費やされているようだ。
花火は昨年から一年越しの愉しみだそうで打ち上げだけで20発ほど持ってきた。
タカコサンの印象によると、ともかくご両親の愛情を一身に受けていて、多少の幼さはあっても素直な良い子に育っていると・・・
タカコサンは養護学校や心障学級の教師の経験もあるので子供を多角的に見る事が出来る。
タカコサンの太鼓判は信用できるのだ。
私は直情型なので評価にむらが出来てしまう。
それはさておき、夕食は近くのイタリアンのレストランで食べた。
ピザが大好きだそうで、一枚をペロリ、パスタも一人前食べた。
食事が終わる頃には私たち夫婦ともすっかり慣れて話もそれなりに弾んだ。

花火は打ち上げというよりも、地面に立てて、火をつけると2メートルほど火花が散る。
彼は20発ほど持ってきたが、それなりの順序があるらしく手際よく並べて順次火をつけていった。
久しぶりに硝煙の匂いと花火に照らし出される風景を楽しむことが出来た。
思えば、花火など30年振りである・・・甥のタカオが幼稚園児の時に来て昼間からあげていたのを思い出した。
締めくくりは手持ち花火で両親と私たち夫婦にも渡してくれた。
過ぎていく夏を惜しむように光の饗宴となり、火が消えた後の寂しさのようなものも味わうことが出来た。
私たち夫婦にとっても晩夏のセレモニーとなり、ゆく夏を惜しんだ。
雨はすっかり止んでいた。

8時を回ったところでNさん一家は帰っていったが彼一人で後始末をきちんとつけていた。
残った花火の残骸もすべてまとめ、用意してあげたバケツも奇麗に片づけてあった。




yodaさんの投稿 - 20:11:36 - - トラックバック()

2022-08-20

季節だより風だより・初秋

花火







きっちりと秋がやってきたようだ。
吹く風が明らかに昨日とはちがう。
肌掛けで寝ていたので4時ごろ寒さに目がさめた。

今日はこれから八ヶ岳の山荘に行く。
先日、落雷で使い物にならなくなった給湯器の取り換えをやってもらうことになっている。
幸い、取り換えの費用は全額、保険で下りることになった。
それから、後の4時頃、透析仲間のNさんがやってくることになっている。
Nさんは透析で唯一の友人となった人だ。
腎クリニックでは患者や同士の付き合いは全くなく,挨拶をしても全く返事が返ってこないような殺伐とした人間関係なのだ。
そんな中でNさんだけは最初から声をかけてくれて親切にいろいろなことを教えてくれた。

今日は息子さんが打ち上げ花火をしたいということで・・・山荘の庭なら危険もないので「どうぞ・・・」とご招待した。
4時ごろ来て食事を一緒にして、暗くなった所で花火を楽しみ、8時ころには帰るという計画だ。
Nさんは八王子在住なので夜の時間帯なら1時間半ぐらいで帰れると思う。

さてはて、喜んでもらえると良いのだが・・・





yodaさんの投稿 - 08:47:48 - - トラックバック()

2022-08-19

好奇高齢者の生活と異見・政治と宗教

地元選出議員







アべ元総理襲撃事件以来、事件の元となった旧統一教会と自民党の関係が明らかになって、藪を突いて蛇が出てきたような状態となっている。
特に我が住む街の八王子はクローズアップされている。
自民党のアベ派の後継者とも目されている政調会長の萩生田さんが旧統一教会との関係を糾弾されているからだ。

萩生田さんは地元では市議会議員、都議会議員、国会議員として成り上がっていった実力者としてみている。
アベさんのように出自によって偉くなった人ではなくコツコツと段階を踏み名が昇りあがった人というイメージある。
確か、一度上りあがっていった段階のどこかで躓いて浪人をしていたことがあったように記憶している。
これは憶測だがこの躓いたあたりで旧統一教会との関係が深まっていったのかもしれない。
ご本人は会見を開き釈明をしているようだがその言葉の中に矛盾点が多く歯切れも悪く、以後関係を断ち切ると言い切れない弱さのようなものを感じる。
私は彼の支持者ではないが、知り合いには熱狂的な支持者もいて地元では次代の総理への期待をしているようだが・・・その目はどうなるのだろうか。
いずれにしろほぼ無名から上り詰めていった人だけに善悪はともかくその実力はあるようなので仕切りなおして再出発してほしい。

なんだか、地元関係者の顔がいくつか浮かんできてどうも歯切れの悪いコメントとなってしまったなぁ・・・

もう一つ・・・オリンピック関係の贈賄事件、高橋元理事がわいろを受け取りユニホーム関係の便宜を図った。
きっとそれぐらいのことは起こるだろうなと思っていた。
その世界では功成り遂げた人が何でだろうと情けなくなってくる。
あのオリンピックそのモノもある意味で歴史に残るような盛り上がらない大会だっただけにアスリートの皆さんはここでまた汚点がついて残念無念だろうと推察する。

コロナは相変わらず猛威を振るっているが、なんとなく日常が取り戻されていっているような気がする。

ここらで台風一過の秋空のように青く澄み渡った気分になりたいものだ。








yodaさんの投稿 - 09:52:08 - - トラックバック()

2022-08-18

モノガタリ・甲府空襲

時は熟した








私の毎日書いているブログがどのように読まれているかはほとんどわからない。
当初はコメントの欄を設けていて読者とのやり取りをした。
しかし、ある時から悪意に満ちたコメントやいたずら書きのような文章が入るようになって閉鎖することにした。
それからは友人、知人などで読んでくれている人は「読んでるよ」と言ってくれる。

現在、毎日の訪問者は2100人前後という所で、その数が多いのかどうかはあまりわからない。
ほぼ毎日読んでいる人は、会った時などにこちらは懐かしがっても相手は日々の動静を知っているので
「昨日の続きまた明日」という感じである。
毎日「読むログ」を開いて文章を読むよりも、私の生存を確認している向きもいる。

ところで先日「8月15日の卵」という長文を載せたが・・・読み終わるのに辟易した人もいるに違いない。
タカコサンはあんな長い文を載せるのはやめた方がいいと言っていたが・・・我慢して読んでくれた人もいたようだ。
あの文章は数年前から格闘している「甲府の空襲」に材をとった物語の一部である。
あの卵が終戦の日に産み落とされてたのは事実である。
当日の学校日誌に記されている・・・終戦記念日には地域の中心である学校では愁嘆場があったのかと思ったが「四国宣言を受諾す」とあり、あとは日常的な学校への訪問者のことが記しているだけなのだ。
拍子抜けするくらいさらりとしている。
この日誌は、北杜市の旧津金小学校の明治の建物(藤村式という時の県令が建てさせた洋館でそれを博物館のように使っている)に展示されていた。
ちなみに、大正、昭和の建物も残っていて宿泊施設やレストランとして使っている。

それはさておき、「8月15日の卵」は私の想像で作られた物語なのだが・・・
昨日、タカコサンの大学時代の友達からメールが入り「感動した」と書いてくれた。
たった一人の読者でも感動してもらえたのは嬉しい。
折も折、H市の図書館の司書のNさんから電話が入り探していた「甲府の空襲」という第一級の資料を甲府の図書館から貸してもらえることになった。

時は熟したようだ・・・今まで書いてきた関連原稿を整理していよいよ今年いっぱいぐらいをめどに上梓したいものである。
自費の出版か出版社に持ち込むか・・・いずれにしろ自分の作品の集大成にしたいと思っている。


yodaさんの投稿 - 17:34:13 - - トラックバック()

2022-08-17

学びの窓・夏休みの宿題

読書感想文







夏休みもいよいよ後半となると子どもたちは「夏休みの宿題」に頭を悩まされる。
ずっと昔(私が教師になった頃・・・60年ほど前)には「夏休みの友」という学習帳のようなものを配って勉強を忘れない程度の学習をさせた。
今の事情はどのようになっているかわからないが、夏休みの課題の中に「読書感想文」を書くというのが入っている。
この課題がいつごろから始まったのかは定かではないがやはり、「私が教師になったころ」から始まったのではないだろうか。
長い休みの間に普段できない読書をしてほしいという願いが込められているのだが読んだ証として感想文を書く。
当初は読書の方の比重が大きかったが、それが感想文を書くための読書となってしまった感がある。
全国学校図書館協議会という団体では「読書感想文コンクール」を主催するようになった。
そして小学校低学年、中学年、高学年、中学生、高校生向けの課題図書なるものまで設定するようになった。

実は私はこのコンクールに加担してお手伝いをさせてもらっていた。
このコンクールの功罪が何度も論議されてきたが、私はこのコンクールのおかげで子どもたちに読書が浸透していったと信じている。
ただ、感想文を書くためにはある程度のセオリーのようなものを身につけなければならないのだが。学校教育の中ではあまりそれについては触れられてこなかった。
そこでその触れられない穴を埋めるべくノウハウを示した本を書かせてもらった。
一番初めに「どくしょとかんそう文」という低学年向けの本を書いた。
そして次に「読書感想文の書き方」という高学年向けの本を書いて、そのあとに「どくしょ感想文の書き方。中学年」を書いた。
どの本もそこそこに売れたらしく、今も中学年向けの本は細々と売れ続けているようだ。

読書感想文の書き方の要諦は一言で言うと「面白い本との出会い」に尽きる。
どのような本を選ぶかによって決まってしまうように思う。
そこで私の書いた本は本のガイドブック的な要素が強いのだが・・・
今となってはもしかすると功罪の罪の方を流し続けたのではないかと思えてならない。
75歳ですっぱりとその世界から足を洗って、今は関りあいを断っているのだが・・・

久々に高校の時の後輩から甥御さんの娘さんが「感想文の宿題」で悩んでいるのでアドバイスが欲しいと言われ、旧著を送ったが役に立ったかどうかはわからない。






yodaさんの投稿 - 09:38:02 - - トラックバック()

2022-08-16

友がき・最高齢女友達

100歳









私の女友達の最高齢であるS先生が8月13日をもって100歳となった。
先生とは町田の鶴川の小学校でご一緒させていただいて、同学年を組んだり、保護者の読書会を開いたりして親しくお付き合いさせていただいた。
個人的には私の物語「スミレさんの白い馬」「春さんのスケッチブック」の主人公のモデルでもある。

「スミレさんの白い馬」は1945年3月10日の東京大空襲を題材にしているのだが先生の体験を取材させていただいて作品化したものである。
たまたまその日先生は城東区(今の江東区)のお兄さんの家に遊びに行っていて被災されたのだそうだ。
私の作品では城東区で小学校の先生をしている設定にしてある。
もう一つの「春さんのスケッチブック」は2009年度の読書感想文の高学年の部の課題図書に選ばれて多くの子どもたちに読まれた。
主人公のイメージをS先生として物語そのものは創作である。
信州の上田にある「無言館」(戦没画学生慰霊美術館)を舞台にした作品で私の作品代表作と言ってもよい。

S先生は60歳で退職されたがそれから40年途切れることがなくお付き合いさせていただいている。
たいてい先生の方が私の体調を気遣ってお電話をくださるのだが、今回は私の方からお祝いのお電話を差し上げた。
電話の向こうの声は艶やかで張りがあり若々しかった。
耳が遠くなったとの事だったがお元気そうであった。

100歳と一口に言ってしまえば簡単だがこの100年間には戦争という苦難の歴史があり、戦後の苦しい時代もあったわけだ。
大きく価値観が転換した経験もあった。
時代も大正、昭和、平成、令和と4代を生き抜いてこられた。
まだまだ元気そうなので聞いて置けることを聞いて書きとどめておきたいと思う。
思えば私も80歳を超えているわけで、もしかすると私の方が先に旅立つことになるやもしれぬ・・・





yodaさんの投稿 - 13:52:11 - - トラックバック()

2022-08-15

モノガタリ・8月15日の卵

前書き
もう10年近くかかって書いている物語があるのだが、なかなか完成に至らない。
今日は終戦記念日・・・今から77年前のこの日を書いた部分だけを切り取って載せてみる。
長くなりそうだがお付き合い願いたい。





「朝から申し訳ないのだけれど、勝利君におねげえがあってね。」
お隣の悦男君の小母さんの声だった。
「勝利、悦男君のお母さんよ。」
ボクは急いで洗いかけの顔をふいて土間のところまで出て行った。
悦男君は小母さんの後ろにのっそりと立っていた。
「悦男あんたからお願いしな。」
「今日のにわとり当番代わってくれねえか。」
ぼっそりとつぶやくように言った。
「実はね、うちのオジイサンとオバアサンが腰を痛めちまって田んぼの草取りが出来なくなっちまってねぇ・・・この子に手伝ってもらわねえとどうにもならねえだよ。勝利君、私からもおねげえだよ。」
「いいよ、ボクが代わりに行きます。」
と言うと、小母さんはほっとしたような顔になった。けれど悦男君ははなんとなく残念そうな顔つきであった。
にわとり当番は学校の鶏舎の掃除をして水と餌をあげる仕事だ。
高学年に夏休み中に一度は割り当てられる
ボクは8月の初めにすでにやっているので要領は分かっている。
フンを集めて、肥料にするために乾かし、小屋の中は水洗いをしてきれいにする。2時間ぐらいはかかるが田の草取りよりも楽である。
「奥さん今日は私は仕事はお休みですからお手伝いしましょうか。」
母さんがそういうと、悦男のの小母さんはパット顔が明るくなった。
「すまないね、都会育ちの奥さんに田の草とりなんかおねがいできないんだけど・・・」
「困っている時はお互いさんですよ、うちだっていつお願いするようなことが起こるかも知れないんですから。」
母さんがそういうと、ホッとしたような様子で小母さんは悦男君を従えて戻っていった。
「にわとり当番は10時頃からでしょ・・・母さんは支度をしてすぐに出かけるから・・お昼はサツマ芋をふかしてあるからあれを持って行ってて食べてちょうだい。」

津金の学校に転校してきたのは夏休みに入る直前だった。甲府の空襲で焼け出されて、お母さんの散髪の客さんだったツムラさんという人を頼りにここまでやってきた、幸いツムラの親戚の納屋に住まわせてもらうことができたのだ。
母さんは主にツムラさんの畑と田んぼの手伝いと近所の人達の散髪をしてあげた。
ぼくは、津金の学校には7月15日から通えるようになり悦男君とは直ぐに友達となった。

朝からジリジリと容赦なく太陽は照りつけていた。学校までの道は田んぼのあぜ道を通っていくと近道だった。
8月も15日ともなると田んぼを吹き渡っていく風は気持ちが良かった。
津金では13日からお盆で、どの家でもご先祖をお迎えする飾りをしていた。けれど、東京ではお盆は7月で、我が家ではお迎えするような仏壇も、ご先祖様の位牌も3月10日の空襲で焼けてしまったのだ。
それでも、母さんは小さな祭壇を作って、東京で亡くなった近所の人や友達や、それに、甲府の空襲で亡くなった床屋のおじいさんとおばあさんの事を祈っていた。
ぼくは自転車屋さんの一家の事が気になったがっトシちゃんはきっと無事でいつかきっと会えると信じていた。

暦の上では立秋も過ぎたので、暑いと言ってもこの辺りは朝晩、随分と涼しくなってきた。
田んぼの上を吹き渡る風に乗ってアキアカネがスイと飛んで行った。
イネは稲穂こそまだ出ていないが葉は大分大きく育ちサワサワと吹く風に揺れている。
この時期の田の草取りはヤッカイだと大家のオジイサンが言っていた。
母さんは自分から手伝うと言っていたがなれぬ仕事に難渋しているのではないかと思った。
太陽の位置からするとすでに10時は回った頃だ。
鶏小屋当番は特にはじまる時間や終る時間の決まりはなかった。とにかく、鶏小屋がきれいになり鶏達に餌をあげればいいのだ。
学校に行く道、誰も会う人は居なかった。村全体がいつもより静まり返っているようすだ。った。
学校に着くと、直ぐに職員室に行って鶏小屋の鍵を受け取った。
日直の先生は輿水という男の先生で4年生を受け持っていた。
「鶏当番で来たので鍵を貸してください」
というと、読んでいた本からチラリと目を上げて立ち上がり職員室の入口まできてくれた。
「昨日も、一昨日も当番がサボってこないので日直の先生が餌だけはあげたみたいだけれど、小屋の中は汚れていると思うよ。本当にご苦労さんだね」
そういって、鍵を渡してくれた。

ボクは鶏小屋に直行して、まず鶏を外に追い出した。
小屋の中は2日間掃除をしなかったので糞が溜まっていた。そしてそれが連日の暑さで匂いが小屋にこもっていた。一瞬クラリと来るな強烈な匂いだった。
当番を2日サボったという人達は、サボったのではなく、悦男君のように家の手伝いや田んぼの草取りに駆り出されていたに違いないのだ。

学校で飼っている鶏は雄鶏が一羽に雌鶏が四羽だ。
校庭は太陽の光に焼けて熱いせいか、鳥たちは小屋の周りでウロウロして、乾ききった雑草を啄ばんでいた。
校庭の隅にある井戸からバケツに水をくんできた。すると、鶏たち新鮮な水に集まってきて、美味しそうに飲んでいた。
小屋の中に入ってまず鶏糞を集めた。乾燥がはじまっていたので、思ったよりも糞は集めやすかった。隅々まで掃いて、コンクリートの部分を水洗いして、乾くまで待った。
それから巣箱のワラを取り替えてあげた。巣箱の中には卵が二個産んであった。そっと触ってみるとまだぬくもりのようなものが残っていた。
一通り掃除が終わったところでお昼にした。サツマイ2本では腹はくちくならないので井戸端に行って水をガブガブ飲んだ。
それから鶏たちの餌作りをした。物置の脇に置いてある袋からフスマと野菜屑を持ってきて水を加えて練った。程よい粘りになったところで餌箱に入れた。
鶏たちも一連の動作で分かるらしく、自分で小屋の中に入ってきて餌をつつき始めた。
二個の卵を巣箱からとって大事に持つと、雄鶏が首をもたげてじろりと睨んだ。
卵は職員室にいる日直の先生に届けることになっている。
鶏小屋から外に出ると午後の太陽にクラリとなった。お昼のサツマイモ二本だけではたりないことは分かっているけれど、食べるものなど何もない。
卵は帽子の中に入れてもう一度井戸端で水を飲んで腹をくちくした。
すると、汗が噴出すように出てきた。
職員室に鍵を持って入ると、輿水先生は途方に暮れたような顔で座っていた。
「鶏小屋当番おわりました。」
と言うと、ハッとしたように顔を上げて、小さくうなずいた。
「ご苦労様、君は斎木くんといったな。夏休み前に転校してきた子だろ。」
と言うと、手招きをした。
「マァ、そこに座れよ。君はたしか東京から疎開してきたのだったな。三月の空襲か・・・」
「いえ、ぼくは3月の東京の空襲には遭いませんでした。学童疎開で山形に行っていました。でも、家は焼けて無くなったので甲府の知り合いを頼って疎開してきたら、七夕の時の空襲に遭いました」
「そうか、ボクは東京で大学に行っていたのだけれど、学徒動員でいったん陸軍に入隊したが、身体をこわして、除隊となってしまったのさ。そこで療養のためにジイサンの家に来ていたのさ」
輿水先生はそこで話をきった。しばらく何かを思い出すようにしてまた語り始めた。
「3月のでボクの家族も全滅さ・・・両親も妹も失った。もちろん家も灰になってしまった。ボクだけはここに来ていたので助かった。身体の具合も良くなったので東京に帰ろうと思った矢先だった。でも、帰っても何もかもなくなってしまったのだからここに留まって何かお役に立てることをしようと、4月から代用教員になったのさ。」
輿水先生はなんだか淋しそうに語ってくれた。

「君は、四国宣言のことを知っているか?」
と聞いてきた。ボクは何のことかさっぱり分からなかったので首を振った。
「今日の正午に天皇陛下の玉音放送があったことも知らないか・・・日本が戦争に負けたのだよ。」
ボクは一瞬何のことを言っているのか理解できなかった。神国日本が負けるわけがないと教え続けられていたではないか。
僕の家にはラジオもないし、新聞も取っていなかった。けれど東京の家は焼けてしまい、甲府の町も七夕の日に空襲を受けた。誰も何も言わないけれど日本が勝っているとはとても思えなかった。40に近いボクの父さんも自転車屋のトシちゃんのお父さんも、そして鶏当番を代わってあげた悦男君のお父さんも応召して戦地に行き、どこにいるのか、ハガキ一枚よこさない。
「広島と長崎にはアメリカの新型爆弾が落とされて町がほとんどやきつくされてたくさんの人たちがなくなったそうだ。」
そのことは、ボクも大家のオジイサンからチラリと聞いた。それでも日本が負けるなどとは言っていなかった。
「ここらが、ちょうど潮時かもしれないなぁ。」
輿水先生はつぶやくように言った。
「それではこれからどうなるのですか・・・」
「ボクにも良くわからないけれど、アメリカに占領されるだろうな。もう空襲がなくなることだけは確かだよ。きっと君のお父さんも帰ってくるかもしれないな。君のお父さんは戦地に行っているのか。」
「初めは国内にいたのですが、ハガキがぱったりとこなくなって、南の方に行ったのではないかと母さんが言っていました。」
「南か・・・入隊はいつだった。」
「今年の1月です。」
「そうか・・・今年の1月ではもう南の方に行く輸送船がなかったかもしれない。沖縄ということも考えられるけれど、案外内地にいるかもしれないぞ。もうすぐひょっこりと帰ってくるかもしれないな。もうこれ以上悪いことは起こらないと思うよ。」
輿水先生は励ますように言ってくれて、湯飲みを持ってきて薬缶から麦茶を注いでくれた。
「暑いところを鶏小屋掃除ごくろうだった。鶏の世界には戦争は関係ないものナ」
先生は笑いながら言った。
「卵を二個産んでいました。」
ボクは帽子の中に入れておいた卵を差し出した。
「そうか、終戦の日に一生懸命に働いてくれた褒美に君に上げるよ。もって帰りたまえ。」
先生はボクに卵を押し戻すようにした。
「また、今度ゆっくり東京の話でもしよう。良かったら一度ぼくの家に来たまえ。」

先生にさよならをして校庭に出た。
太陽の陽射しはまだ強かったけれど大分西の方に移動していた。
帽子に入れておいた卵は手ぬぐいに大事に包んだ。
まさか二個の卵が自分のものになるとは思わなかった。
卵を食べたのは学童疎開で山形に出かける前の夜、母さんがどこからか見つけてきてくれて、甘い卵焼きをつってくれた。ちょうど一年半も前のことだった。
あの時は父さんもまだ家に居た。
本当に戦争が終わって、父さんは帰ってくるのだろうか・・・東京の家は焼けてしまって跡形もない。父さんが帰ってきて、またもとのように店を開けるだろうか・・・なんだか考えると不安になってきた。
西日を背に受けて家に帰りつくと、母さんも帰っていた。
すっかり日に焼けてグッタリとした様子だった。
「日本が戦争に負けたんだってね・・・」
母さんは意外と明るい顔をしていた。
「学校では何か先生方言っていなかった?」
「ボクが当番を終えて職員室に行った時には日直の輿水先生しかいなかった。」
「あの、学生のような若い先生かな。」
ボクはだまってうなずいた。
「日本はアメリカに占領されるって言ってた。でも、空襲もなくなるし、これ以上悪いことはおこらないだろうって・・・もしかするとお父さんが帰ってくるかもしれない。」
「そうだね、お父さんが帰ってきてくれるのが一番だけれど、今どこにいるのかもわからないんだものね。」
お母さんは淋しそうにいった。
「輿水先生が鶏小屋にあった卵を持って帰って良いって二個くれたよ。」
「母さんも悦男君ののお母さんに草取りと鶏当番のお礼だといってお米をもらったよ。ちゃんとあるところにはあるんだね。」
母さんはちょっと羨ましそうな言いかただった
「白いお米を見るなんて何ヶ月ぶりだろうね。そうだ、今夜は戦争が終わった記念に白いご飯に卵料理とするか。」
母さんは記念と言うところだけは声を潜めるように言った。
「勝利の好きな甘い卵焼きといきたいところだけれどお砂糖がないからね・・・暖かいご飯に卵をかけるというのでどう。」
「ボクもそれがいいと思う・・・先生が持って帰れと言ってくれた時にすぐにそのことを思いついたよ。」
「それで決まりだね。すぐに支度をしようね。せっかく貰ったお米だからおいしく炊かなければね。まず、もう一度精米しようかね。勝利、空いた一升ビンを持ってきて頂戴。」
母さんは袋の中から米を取り出して升で量った。
「父さんが帰ってきたら食べるつもりでいたけれど、前祝いだわ・・・景気良く2合炊いちゃおうね。今日は腹いっぱい食べようよ。」
ボクは母さんの量った米をビンの中に入れてはたきの柄のほうを突っ込んで米をつき始めた。こうすると米と米がビンの中でスリあって糠が採れて精米されるのだ。
シャックシャックとリズムに乗って米がビンの中でおどっている。
「あんまりやりすぎると米が割れてしまうからそれくらいでいいよ。糠も捨てないでとっておくんだよ。」
母さんは七輪に火を起こしていた。今住んでいる家にはかまどはない。煮炊きはほとんど大家さんで借りた七輪で済ます。お釜もないので、ご飯は飯盒で炊き、料理は鍋でする。
それらも全て借りたものだ。
米は水が白くなるまで良く研いだ。
そして、ザルにあげて5分ほど水を切り、飯盒に入れた。
「お腹がすいているだろうけれど、ここで30分ほど水に漬けておくのよ」
始めに火勢を強めて、ぶくぶくと吹き上がり、蓋が持ち上がりそうになった所で火を小さくする。10分ほどしたら七輪からおろして蓋のほうを下にしてまた10分ほど蒸らす。

蓋を開けると甘い米独特の香りがあたり一面に漂った。薄暗い明かりの中に白さが際立って見える。表面のお米は立っていて、所々に穴があいてつやつやと輝いている。
お昼をサツマイモ二本で頑張ったお腹がグーとなった。
母さんは茶碗の真ん中を窪ませてそこに卵を割り落し醤油をたらして豪快に掻き混ぜた。
ボクは別の器に割り落として醤油を入れて良く掻き混ぜた。
計画としてはこれで三杯食べるつもりである。
20ワットの電球に卵かけご飯が輝いていた。
口の中に入れると、米の甘さと卵の食感が微妙に混ざり合って『おいしい』の感覚をユリ戻してくれた。母さんは一口一口いとおしむように味わっていた。
「戦争が終わった日をお祝いだなんて口が裂けても言えないけれど、なんだかほっとするね。これで父さんが帰ってきてくれれば言うこと無いんだけれどね。」
母さんは独り言のように言った。



yodaさんの投稿 - 09:31:51 - - トラックバック()

2022-08-14

季節だより風だより・台風一過

さしたることもなし








一日外にも出ず台風の襲来を待ち構えていたが、さしたることもなく過ぎていった。
ピークとなるだろうと予報で言っていた夜半過ぎには煌々と月が照っていた。
ともかく何も被害も出ずによかったと言うべきか・・・

私は不謹慎だが台風接近などというニュースがあると胸躍る。
被災された人々には申し訳ないが子供のころから台風好きであった。
特に過ぎ去った後の青空にはいつも爽快感を感じる。

子どもの時、我が故郷の切石の家の裏に、富士川が流れていて流れが堤防のぎりぎりまで来て濁流が入りいろなものを流していくのを何度も見た。
特に家が一軒流されて行ったり、良い建材となりそうな丸太が流れてきたり・・・
大人たちは堤防の上から何か役に立ちそうなものはないかと待ち構えていた。
戦争が終わって直後頃の記憶である。
子どもたちは大水が引いた後の河原での愉しみがあった。
なん箇所か水が引き切らずちょっとした池のように水たまりが出来ている。
そこに本流に戻り切れなかった魚たちがいるのだ。
ハヤ、ウグイなどの小魚から時にコイなども泳いでいる。
大物では、ウナギ、ナマズなども潜んでいた。
水たまりなので子どもでも入っても危険はなく網を持っていくと採り放題だった。

また、上流から流されてきた思わぬ拾い物もあった。
玩具の類や、ボールなども河原に取り残されてあった。
子どもでも持ち運べそうな木々などはお風呂の焚きつけ等になるので持って帰るとほめられたものである。

いまから70年も前の体験だが・・・それが記憶の中に残っていて台風接近となると胸躍るのかもしれない。









yodaさんの投稿 - 15:13:38 - - トラックバック()

2022-08-13

季節だより風だより・台風接近

睡眠障害








台風接近の報に一日どこにも出かけずに自室にこもっている。
今日はお盆の入りの日なのにお飾りは全てタカコサンに任せてしまった。
いつもならナスとキュウリでご先祖様を迎える馬を作るのだが、藁で出きた可愛らしい馬を買ってきて済ませてしまった。

実は一昨日の夜、どうしても眠れなくて導眠剤を一錠飲んだが2時間たってもまだ眠れないのでさらに1錠追加して飲んだところ眠りにはついたがまずは昨日の午前中おかしくなった。
10時ごろからブログを書き始めたのだが文章もまとまらず、文字の変換間違いばかりしていた。
それでも透析には行かなければならないのでともかく出かけて行ったが・・・さしたることもなく4時間は過ぎた。
しかし、それからがいけなかった。
家に帰って夕食を食べながらウトウトし始めて食べ終わった頃、椅子から転げ落ちそうになるくらい眠くなってしまった。
タカコサンに何度も注意されたらしいが全く記憶にない。
床に入ったのが9時頃だったがそれから10時間、泥のように眠ってしまった。

と書いたがフト「泥のように眠る」という表現は何気なく使ってしまうが、深く眠ることを「泥のように」というのだろうかと疑問におもった。
同じような表現に泥酔というのもあるではないか・・・
実は「泥」はドロではなくて中国の想像上の生き物で海底に住んでいた海の中では活発だが陸に上がると全く正体もなく動かなくなるのだそうだ・・・その様から出てきた表現なのだそうである。

それはさておき・・・今日は眠り過ぎてまだボーッとしている。
この眠り過ぎは導眠剤のせいなのかどうか分からないが「2錠飲むのはやめてちょうだい」とタカコサンにきつく言われてしまった。
じつは以前にも同じように意識が飛んでしまうようなことがあったのだ。
加齢とともにいろいろな予期せぬ出来事が起こるものだなぁ・・・

今日はこれから早めに迎え火を炊いてご先祖様をお迎えする。
台風の通過は夜半過ぎとなるようだが、今のところは嵐の前の静けさという所だ。



yodaさんの投稿 - 16:56:01 - - トラックバック()

2022-08-12

季節だより風だより・忘れ物

処方箋







昨日は母の命日を忘れたことを書いた。
私だけでなく弟はどうであったか電話してみると、彼も失念したようだった。
「今、お盆さん用の安倍川餅の生産が忙しくて出来上がった餅を配り歩かないとならない」
とのこと、そういう言えば甲府近辺はお盆に安倍川餅をそなえる習慣があるようだ。
故郷切石では安倍川のかわりに「あんころもち」を作ってた
もしかして‥これは推測だが甲州名物の信玄餅は安倍川餅から発想を飛ばしているのかもしれない。
餅は求肥で黄な粉と黒蜜も使っている。

それはさておき母の命日を忘れるくらいだから、ちぐはぐな一日となってしまった。
まずは無聊を慰めるために持っていっているタブレットをクリニックに置いてきてしまった・・・加えて来週の薬のための処方箋も忘れた。
そこで泣く泣く透析日でもないのにクリニックに出かけて行った。
受付嬢を通してロッカー室に入り自分のロッカーから処方箋とタブレットを取り、北野にある処方箋薬局にいくと・・・
本日は休日のため休みだった。
「山の日」だそうだ…私が若いころはそんな休日はなかった・・・腹立たしい。
処方箋の有効期限は3日なので今日わたしの代わりにタカコサンに行ってもらう。

ちなみに姉に命日を聞いたところ、ちゃんと覚えていた。
母を看取ってくれたのはすぐ上の姉だった・・・・



yodaさんの投稿 - 09:49:22 - - トラックバック()

2022-08-11

季節だより風だより・風立ちぬ

命日








ひんやりとした風が窓から吹き込んできた。
昨日とは明らかに違う風であった。
時計を見ると丁度7時を指していた。
いよいよ秋の風が立ったようだ。
昨夜は透析から帰り夕食を済ませてすぐに床についてしまった。
何がどうというわけでもないが、やはり連日の暑さに眠れず、睡眠不足が続いていた。
覚えているのは時計が9時を指していたことだ。
それから泥のように眠るという表現がぴったりだったかもしれない。
途中2時ごろに眼が覚めて、夢遊病者のように夏掛けの布団を持ち、階下に降りてリビングのソファーで寝た。
夏の間時々これをやるのだ。
幅が60センチぐらいで仰向けにも腹ばいににもなれぬ狭さであるが横向きになって寝る。
皮のヒンヤリとした感触が心地よいのだ。
普通なら床に落ちても仕方がない狭さであるがいまだ一度もそれはない。
4時ごろ目が覚めてまた夏掛けをもって二階に上がりベッドで寝なおした。
7時に起きて、ベッドの縁に座り込んでボーとしていたが、昨日は透析があった日だが何か大きな忘れ物をしたような気がした。

だんだん目が覚めてきて思い出した・・・母の命日だったのだ。
2005年8月⒌日・・・ちょうど起きて朝食をとろうとした時にすぐ上の姉から電話があっていよいよ危ないのですぐ来なさいと言われた。
ちょうどこの日は一人で八ヶ岳の山荘に居た。
「朝飯食ったらすぐ行く」と言ったところ、「朝ごはんなんかいいからすぐ来なさい」と𠮟られた。
山荘から病院まで2時間はかかりそうなのですぐに駆け付けても間に合いそうもなかった。
正直なところ、死に目になど会いたくなかったのだ。
それからこの日は長い1日になることが分かっていた。
腹が減っては何とやらで、しっかりと朝食は取って出かけて行った。

病院に着くとすでに母の遺体は車に乗せられていて私が来るのを待っている状態だった。
姉2人弟1人そして私4人にタカコサンは心強かった・・・それぞれが役割分担をして葬式はお盆の前の日の12日とした。
私は喪主としてただ頭を下げていればいいだけだったが・・・
母は80過ぎるまでガールスカウトのリーダーをしていたので自分の立ち上げた甲府第4団の制服と共に荼毘に付されていった。
関係者の参列が多かったことを今も覚えている。








yodaさんの投稿 - 17:26:45 - - トラックバック()

2022-08-10

故郷の空・墓参

疲弊








1週間早く故郷の切石に墓参に
行ってきた。
ちょうど雷騒ぎのあった次の日であったが、予定通り甥のタカオに山荘まで来てもらって車で切石まで行ってもらった。
途中姉の所によって墓前に供える花を用意してもらった。
姉の所から切石行くには中部横断道を通っていくのだが、30分ぐらいで着いてしまった。
町は人っ子一人通っていない・・・人影というものが全くない。
私の子どもの頃はいろいろな店があった。駄菓子屋もお菓子屋も、魚屋、八百屋、雑貨屋、下駄屋、桶屋、自転車屋もあった。
万ず屋というタバコ屋があって雑貨も売っていた、同級生の家は酒屋で「延寿の泉」という酒を造っていた。

あれから70年、店はすべてなくなっていたのだ。
たばこやジュースの自販機すら置いていないのである。
切石には身延町の役場が置かれているが、町として発展していく兆しはない。
東隣の集落の西島は川沿いにバイパスを作りそこを拠点として発展しているようだ。
おなじく、同じ町内の西隣の飯富もそこそこ発展して町営の病院もある、
最近スーパーとシャトレーゼが出来たとか・・・
切石が行くたびに疲弊していくのは人口減もあるが道路を大型の車が通るので危険極まりない。
人々の時代の読み違いでバイパスを作ることに反対があったのだ・・・今は見る影もない。
あと10年もすれば年寄りばかりの町となりますます疲弊していくに違いない、

これは切石地区だけの問題ではない。
昔殷賑を極めた地方都市も同じような運命をたどっているようだ。
我が町甲府も中心部にあった100年にも及ぶ中心街のデパートが来年春には撤退するのだそうだ。







yodaさんの投稿 - 09:58:54 - - トラックバック()

2022-08-09

八ヶ岳南麓だより。顛末

でくの坊








昨日の11時頃保険会社から電話があり必要な手続きの指示があった。
どうやらそんなに面倒なことではないようで工事をしてくれるSさんに使えなくなった給湯器の写真をとってもらい新しい給湯器にかかった費用を添付してもらえばよいのだそうである。
そしてそれを保険会社に送る。

と、まぁ一件落着のように書いたが、実は私は何もしていないのだ。
まず、給湯器が使えないと分かった時・・・唯々おろおろするばかり。
タカコサンがすぐにSさんに電話をかけた。
Sさんは山荘で何かトラブルが起こった時に対処してくれる人なのだ。
近隣に住んでいて建築、建物の修繕、電気工事、水回りの諸々まで何でもやってくれる。
今までも何度もピンチを救ってもらっている。
Sさんは長坂町に来てからできた友人の娘婿さんで結婚式にも参加させてもらった。
しかし、彼とのパイプはタカコサンが握っていて今回も仕事の帰りに寄ってくれたのだ。
私は彼との連絡の方法・・・携帯の番号など知らないのだ。

落雷による被害について保険が降りるかもしれないと気が付いたのは私だが、保険会社への連絡のすべは知らずこれもタカコサン任せである。
命じられたのは保険証書を探すことだけだった。
タカコサンは日曜日、山荘から帰ってからすぐに私が探し出した証書をもとに夜にもかかわらず会社に連絡を取った。
そして昨日担当者から連絡がありほぼ保険で充当できることが分かったのだ。

私はもう対外的な事は何もできない「でくの坊」に成り下がってしまったようだ。
唯々、まじめに透析に通って一日でも長く生きればいいとのこと・・・




yodaさんの投稿 - 17:33:36 - - トラックバック()

2022-08-08

八ヶ岳南麓だより・落雷

保険申請








今回の落雷はすさまじいものだったようだ。
タカコサンがご近所に出かけて行って様子を聞いてきた。
天地が割れるのではないかと思われるような稲光と音だったそうだ。
そのお宅では電気洗濯機が動かなくなったそうだ。
北杜市全体かどうか分からないが、特にパソコンなどの電子機器の被害が多かったようだ。
今年は炎暑の影響か例年に比べて雷が多いそうだ。
これから毎年異常気象による落雷も多くなっていくかもしれない。

給湯器の故障を見に来てくれたSさんによると、雷は近隣に落ちると地面を伝わって広範囲にわたって被害をもたらすのだそうだ。
特に、電子機器のようなものは落雷には弱く破壊されてしまうとの事。
給湯器も機能が便利になっているものほど電子機器が組み込まれてまれているようだ。
特に追い炊き機能が壊れてしまい全体が使い物にならなくなると言っていた。
以前にも一度給湯器が壊れてしまったことを思い出したが・・・ふと落雷による被害の場合には火災保険が使えるのではないかと・・・
以前の時は手続きが面倒だったので申請しなかったが「先立つもの」を用意するのがかなり苦しいので面倒でも申請してみようと思った。
それには保険証書の確認が必要なので、昨日は八王子に帰ってきて証書を探し出した。
と、山荘の保険証には落雷による被害の補償がちゃんと記載してあった。

実は5年ほど前に台風が通過して庭の立ち木の枯れ枝が屋根に落ちてきてスレート瓦を破損したので保険保証の申請をしたところ全額認証された。
今回はどの程度の保証があるかはわからないがともかく申請をしてみる事にした。
保険制度はこういう時の備えであるから面倒がらずに保険会社に連絡を取った。
願わくば・・・全額保証されることをねがっているのだが・・・



yodaさんの投稿 - 09:46:17 - - トラックバック()

2022-08-07

八ヶ岳南麓だより・落雷

踏んだり蹴ったり









昨日は1週間早く墓参りをするために八ヶ岳の山荘に出かけて行った。
しかし、ハプニング続きのさんざんな一日となった。
いつもなら10時のはちバスで出かけて10時半の特急に乗るのだが今回は1時過ぎの特急にした。
八王子で昼食をとって、さてと腰を上げようとしたとき、タカコサンに私の障害者手帳を渡すのを忘れたことに気が付いた。
実は障害者である私は付き添いがあると乗車券が半額になるのだ。
乗車券はすでに買ってあったのだが・・・障害者手帳を提示しないと乗車できない。

障害者手帳を渡してないというよりも、家に忘れてきてしまったのだ。
今更取りに帰ることもできないので、結局乗車券を普通料金に買いなおして乗車することにしたのだ。
そのためにはみどりの窓口に行って手持ちの乗車券をキャンセルして買いなおし。
実にめんどくさいことになってしまってタカコサンには平謝り・・・

無事、小淵沢に着き、タクシーで山荘に着くと・・・電気が付かない。
真っ暗な中をブレーカーの所に行ってみると落ちていた。
どうやら落雷があってブレーカーが落ちたらしい。
電気はついたので一安心と思ったが、給湯器が全く作動しない。
実は以前にも同じことがあって買い替える羽目になったのだ。
山荘のその手の管理をしてくれるSさんに来てもらったところ買い替えないとだめ・・・
給湯器の全面取り替えには30万ほどかかると言われた。
こんなことが続くと、年金生活者には維持できそうもないので、そろそろ手放すことも考えなければならない時が来ているかもしれない。

そしてもう一つ電気がキレたことによって冷蔵庫が作動しなくなっていて中に入っていたものが融けたり、腐ったり、カビが生えたり・・・
踏んだり蹴ったりである・・・・
勿論昨夜は風呂はなし次回までに取り替えが出来るかどうか微妙である。






yodaさんの投稿 - 19:59:06 - - トラックバック()

2022-08-06

かたくら通信・原爆忌

平和祈念








一昨日と昨日と雨、曇りと久しぶりに気温が下がったので昨夜は導眠剤やアルコールに頼らずにぐっすりと眠ることが出来た。
目が覚めたのが7時であったがそのまままた一時間ほど寝てしまった。
起きた時にはすでに8時15分を回っていて毎年行っている原爆忌の黙祷ができなかった。
それでも、平和祈念式典の様子はテレビで見ることが出来た。
今年は広島出身の岸田総理の挨拶だったので山口出身の元総理の挨拶よりも実がこもっているように感じた。
しかし、世界の情勢は昨年よりもさらに厳しく、核兵器の使用が現実のものになりかねない。
我が国でも核兵器保有を言いつのる人達が出てきていることは愚かしいことだ。

ロシアのウクライナ侵攻もいつ果てるという見通しも立たず、加えて台湾と中国の関係もきな臭い。
アメリカの下院議長のペロン氏の台湾訪問が引き金になっているようだがこれ以上の緊張関係が起きないように祈るばかりである。

今日はこれから八ヶ岳の山荘に向かう。
お盆は交通機関が混雑することが予想されるので1週間早く墓参りを済ませておこうと思っている。
幸い甥のタカオが明日車を出してくれることになっているので今夜は山荘に泊まって明日迎えに来てもらう。
コロナの猛威も止むところがないようだがワクチン4回の効力を信じて出かけていく。
願わくば・・・前回のようにお子様の集団に合わないように・・・

実は今日は高校の時のクラブ・ハイスクールYMCAのOB会が開かれているのだが、やはり処々の事情にかんがみて欠席とした。
ハイスクールYMCAそのものは今は存在しないのでOBたちは皆70歳を超えている。
またいつ会えるかどうか分からないのが残念である。







yodaさんの投稿 - 10:04:45 - - トラックバック()

2022-08-05

お好みテレビ館・迷宮グルメ異郷の駅前食堂

ヒロシ









テレビの番組が押しなべて面白くない。
同じタレントがいくつもの番組に出てバカ騒ぎをしているに過ぎない。
一番不快なのは、「大食いの番組」である。
可愛い顔したタレントが山盛りの料理を時間内に胃の中に詰め込む、
あれは食べるのではなく詰め込むとしかいいようがない。
飢餓の時代育った身にとってはいたたまれない。
また、旅番組が同じような企画で放映されている、
それがわざとのように秘境と呼ばれるような所を訪ねて寿司屋や食堂を探す。
正直、何の役にも立たないような情報ばかりである。

そんな中で木曜日の9時から始まる「ヒロシの迷宮グルメ異郷の駅前食堂」という番組を楽しみに見ている。
30年ほど前にちょっとブレイクしたヒロシという自虐芸人に世界を旅させてその国の駅前にある食堂で美味しいものを食べさせる。
彼はいつも一人ボッチを好むようで異郷の駅に降りて当てもなく自分の嗅覚だけで食堂を探し当てる。その訪れる駅もほぼ名の知らないような所を怪しげな英語を操りながら彷徨する。
普通、観光では行かない路地裏のようなところにも平気で入っていく。

昨夜はラトビアのヴァアヌパークという駅に降り立った。
まずはラトビアがバルト3国の一つである事しか知らない。
位置も国情についてもほとんど無知である。
国はソビエト崩壊後の影響が残っていてガラクタと思われるようなモノを売る市場を見せる・
それからヨーロッパ3大市場と称されるような格納庫を利用した食品市場を訪れるが結局はありふれた普通の駅前食堂でラトビアの料理を堪能する。

続いてもう一本、フィリピン縦断の旅でマニラ市内の舌を噛みそうな町に降り立つ。
終戦直後の日本のようなバラックが立ちならび雑多である。
そこに降り立つヒロシに違和感はない。
日本で働いたことのある女性がヒロシを知っていて「大好き」と寄ってくる。

ヒロシはどこに行っても映像の中に溶け込んでいて、食べているものがほぼ土地の人の食しているB級グルメであることも好ましいのだ。






yodaさんの投稿 - 09:51:28 - - トラックバック()

2022-08-04

好奇高齢者の生活と異見・何が問題

統一教会と議員








元総理が凶弾によって倒れたことによって、今まで蓋をされていた問題が一気に露呈してしまったような感がある。
統一教会と自民党議員との癒着である。
統一教会なるものは今は世界平和統一家庭連合と名前を変えているがその実態は同じものであるらしい。
宗教団体と政党とが結びつくことはままあることで、K党とS学会などは有名である。
しかし、統一教会については今から30数年前に霊感商法という個人の弱みに付け込んで高額の壺や多宝塔などを売りつけた。
それが問題となり、つい最近まで影を潜めていたが、今回の事件はそのことが今も尾をひいていたことになる。

そもそもこの宗教団体が日本に持ち込まれたときその旗振りとなったのが安陪元総理の祖父に当たる岸信介だった。
それが三代目にまで受け継がれ今回の凶行が起こったわけだ。
自民党の幹事長の茂木何某は我が党とは一切関係ないと言っている。
総務会長の福田達夫は「何が問題なのかわからない」と・・・
福田も三代目の議員で庶民の感覚とは程遠い所にいるのだろう。

宗教と政治が結びつくこと自体悪いわけではないが、その宗教団体が世の中を揺るがすような事件を起こしているのにいまだそれに結びついている政治家が悪い。
今回露呈した中に、選挙の折に落選しそうな議員に票を割り振ったり、無償で応援に駆け付け電話戦術などのサポートをしたり・・・
恩を受ければ無償以上のモノが返ってくるのは必定。
現に統一教会から世界平和統一家庭連合と名称を変えた時に時の文部大臣の下村何某がすんなりと受理したという。
勿論、彼も安陪元首相の側近でその恩恵を受けたという。

自民党は一切関係ないと言い切れるのか・・・「何が問題なのかわからない」などとノー天気なことを言っていられるか。
その政治家たちがこの団体の広告塔になっていることは想像に難くない。
今も統一教会のやり口に被害を受けて苦しんでいる人たちがいることを忘れてはなるまい。




yodaさんの投稿 - 16:48:49 - - トラックバック()

2022-08-03

なごみ食堂・ボローニヤソース

挽肉








この所、暑さと透析のせいか何を食べても美味しくない。
我が家では食事担当は私であるが、今まで培ってきた自信のようなものが揺らいでいてしまっている。
特に透析から帰ってきてからの食事作りがつらい。
そこで透析の夜の夕食は納豆と決めているが、納豆にもメーカーなどによりそれそれぞれ味があり、今のところ「おかめ納豆」と決めている。
けれど毎回となると飽きもくるのでいろいろ開拓している。
今日は久しぶりに何か作ってみようと。食材探しからはじめた。
タカコサンが「ぎょうざなら作ってもいいよ。」と
そこで、生協の挽肉売り場に行ってぎょうざの材料の豚の挽肉とボローニヤソースの材料の合い挽きを買った。
ぎょうざはタカコサンに任せて、さっそく、ソースに取り掛かった。

玉ねぎをみじん切りにし、同じくにんじん、セロリも細かく切った。
オリーブ油を敷いて挽肉を炒めて、色が変わったところで野菜を入れて炒める。
その間にミニトマトを刻んで入れた。
食材が肉になじんできたとところを見計らって、白ワインを入れて煮込む。
かき混ぜながら30分弱火にして煮込んだ。
味を見るとどこか違う…トマト味が弱い。
そこで、トマトビューレを入れて味を調えた。

それなりの味となったが、一晩寝貸せておいた方がよいとタカコサンが言ったので火を落として朝まで置いた。

さて完成形を食してみたところ・・・不味くもなく美味くもない。
頭の中で描いていた味と違うのだ。
タカコサンに味見をしてもらうと・・・マアマアという返事。

「あなた、もしかして挽肉を合い挽きでなくて、豚だけにしたんじゃない」
自分では合い挽きを買ったつもりだがそういえば安かった。
肉の入っていたトレーを見ると豚挽300グラムとあった。

まぁ、いいかそんなに不味いわけではなし…そんなのもありかもしれない。



yodaさんの投稿 - 10:39:06 - - トラックバック()

2022-08-02

かたくら通信・炎天下

日射病








どうしてもこれ以上は預けておくことが出来ない本をみなみ野の本屋に取りに行ってきた。
芸術新潮と各出版社が出しているPR誌である。
そのほかに注文を出しておいた本も届いているそうだ。
ところが今日も暑い・・・並の暑さではない。
外に出るとモアっと暖かい空気にまとわりつかれた。
それでも意を決してはちバスで片倉駅まで向かい一駅先のみなみ野駅へ・・・本屋までは徒歩5分ほどで冷房してある建物の中なので助かった。

本を受け取ってからさてどうする・・・ちょうどお昼前だったので二駅先の橋本で昼食をとった。
食欲減退で食べたいものもなかったが行きつけの駅ビルの寿司屋で握ってもらった。
ところが暑さのせいかろくなネタがなく美味しくなかった。
6個ほど握ってもらって退散・・・もし橋本に行くのならパンを買ってきてと言われていたので食パンだけ買った。
それで、今日の用事は全て済んだのだが・・・帰りは橋本駅発八王子駅行きのバス。
このバスは透析に行く時に使っているバスである。
バス停から家まで炎天下を15分ほど歩く・・・太陽は南中していて地上には影がない。
そこでワンクッション置いて途中の生協で夕食の食材を買った。
けれどいつものことながら目についたものをすぐに買ってしまうので大荷物となった。
背中には本の入ったリュックを背負い、両手に買い物袋を提げて炎天下を歩いた。
家まであと5分ほどの所にきてグラリときた。
熱中症などという流行りの症状ではなく「日射病」である、
私が子供の時、現役の時には熱中症などという洒落た名前はなかった。
その言葉を聞くたびに「何に熱中しているのやら・・・」と思ってしまう。
断然私の症状は日光の光による「日射病」だ。

携帯でタカコサンに電話してお迎えのSOSを出して無事に救出された。
熱中症と日射病の違いはどこにあるのかなぁ・・・


yodaさんの投稿 - 17:38:30 - - トラックバック()

2022-08-01

なごみ食堂・トマトスープ

さまよえる霧の恋歌(高橋治著)









朝食を終えて二階の自室に上がってきたが、窓からは熱風が吹き込み室温は間違いなく30度を超えている。
先週から始まった真夏日はすさまじい・・・朝のうちは涼風が入ってくるはずなのに、屋根の照り返しが間違いなく空気の温度をあげている。
あまり好きではないけれどこう暑くてはクーラーを付けざるを得ない。

日日の食欲もほとんどなく、粗食である。
透析の日は帰ってすぐに夕食なのだが、ほぼ白飯と納豆だけで済ませている。
お昼は麺類で饂飩、蕎麦、中華麺などを交代で食べている。
朝食はトーストと紅茶それに何か一品だが、このところトマトスープを作っている。
と言っても、なるべく手をかけないように簡単で、できれば美味しく・・・

実はコロナが始まったあたりからトマトやキュウリなどの野菜の青臭さが鼻に付きほとんど食べなくなってしまった。
そこで過去のレシピを思い出して件のスープに至った。
作り方は至ってシンプルで材料は生卵一個にトマト一個である。
まずは小鍋にお湯を沸かしてその中にトマトを入れる(湯剥きの要領である)
トマトの上の方に十字の切込みを入れてヘタは切って芯の部分はくりぬいておく。
できれば良く熟れたトマトが望ましい。
5分も茹でると自然に十字に切込みを入れたところから皮がはがれていく。
一方、生卵であるが割ってよく溶いて、ちょっとした味付けをする。(塩・胡椒で味付け、または醤油をひとたらし)
それをバターを溶かしたフライパンに入れてすぐに火を止める。
スクランブルエッグよりもレアにして器に入れる。
そしてその上に湯剥きをしたトマトを入れる。
トマトが煮汁を含んでいるのでそのまま崩しながら食べる。

このシンプルな料理を知ったのは高橋治の「さまよえる霧の恋歌」という小説である。
高橋は映画監督から小説家となった異色の人で、「風の盆恋歌」の作者でもある。
食通としても知られている・・・
しかし今は石川さゆりがうたう「風の盆恋歌」の方が有名になってしまったようだ。

食欲のない時にはピッタリのスープである・・・お試しあれ。






yodaさんの投稿 - 10:15:17 - - トラックバック()