2022年 7月の過去ログ

2022-07-08

かたくら通信・空襲

消息








私たちは七夕空襲の時には甲府から20キロほど離れた身延町切石の父の生家に母と二人の姉と私の4人家族で住まわせてもらっていた。
そのころ切石の家には脳性小児麻痺で寝たきりの叔父がいた。
食も排泄もすべてのことを誰かに頼らなければならないような病状だった。
7日の夜は空襲警報の発令と同時に、祖母が背負っていた。
男手は切石遊便局の局長の叔父がいたが、彼はわが家で一番大切な仏壇を背負っていた。
ほぼ2時間ほどで空襲警報は解除となったが村の鎮守様の脇に掘ってあった防空壕までたどり着いたかどうか記憶は定かでない。
この防空壕なるものは実際の空襲では一番危険だったようだ。
甲府の湯田地区では何基かあったようだが、防空壕に避難した人たちのほとんどが蒸し焼きになって亡くなったそうである。
一基だけ助かったが、ひどいやけどの人が続出したそうだ。
甲府に住んでいた同年の友人に体験談を聞くと…一番勇敢だったのはO君で父親が警察官で家に帰ってこられなかったので、幼い妹や弟の手を引いて甲府の南を流れている荒川まで避難したという。
家が米屋だったN君はしまってあった砂糖が溶けてキャラメルのようなにおいがしたことを鮮明に覚えているという・・・

我が家では次の日に母が甲府の様子を見るために朝から出かけていた・・・母の父親と妹の家族が伊勢町に住んでいたのだ。
しかし、交通機関は全て不通で、歩いて行くにはあまりにも遠すぎて鰍沢まで行って帰ってきた。
そして2・3日して一家が無事であることが知らされてきた。
御岳昇仙峡の奥に避難して、1歳になる従弟が軽いやけどをしたとのことだった。

私が初めて甲府の焼け跡を見たのは終戦から4年後のことだったが、まだ、ところどころに空襲を受けたままの焼け跡が残っていた。
市の中心部の映画館跡などは、下がコンクリートだったので子供たちのめんこ場となっていた。
市内の子どもたちが集ってメンコの真剣勝負をする。
さながら賭博場のようなにぎわいだった。







yodaさんの投稿 - 10:05:23 - - トラックバック()