"八ヶ岳南麓だより・百日紅忌"

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八ヶ岳南麓だより・百日紅忌

母の命日






2005年8月10日、母は旅立って逝った。
この日のことは何度かブログには書いたが、危篤の連絡を受けたときにすぐに出かけることなく,息を引き取る時には間に合わなかった。
後で姉たちに叱られたが、気分として最後の瞬間には立ち会いたくないという気持ちがどこかにあったのだ。
ともあれ、その89年の生涯は波乱万丈だったように思う。
甲府の太田町というところで生まれ14歳になるまでは何不自由ない生活であったが、その年に母親を失い、それから父親の事業の失敗で夜逃げ同然のような憂き目にあった。
それまで通っていた甲府のミッションの女学校も卒業が危うくなったが、周囲の人々の温情で何とか卒業は出来た。
そこで、自立しなければならなくなり、学校の先生方の尽力で、東京の青山学院の先生の家に女中奉公に上がることになる。
そして、19歳のときに父に見初められて結婚して、当時父が勤めていた新潟大学の病院の関係で新潟市に新居を構えて3人の子をなす。
その3番目に生まれたのが私で、1940年11月のことだ・・・その翌年に太平洋戦争が始まり父は軍医として応召して私たちは父の郷里である山梨県身延町切石の父の実家で生活することになる。
そこからが第二の苦難の始まりであった・・・2歳、4歳、6歳の子供を抱え、姑や小姑に気を使いながらの生活である。
それまでやったこともないような農業全般と家事を任され、終戦の前後には食料調達のための買出しにも出かけた。
幸い父が戦地から帰還したので、昭和24年に切石の生活にピリオドを打った。
父は甲府で産婦人科の医院を開業したが、それからの10年ほどは医院の経営が軌道に乗るまで第三の苦難が続いたようだ・・・けれど戦中・戦後の苦労を思えば先に希望があるだけ苦労もいとわなかったようである。
そして50を過ぎて生活にゆとりが出てからは地域でガールスカウトの隊を立ち上げ以後なくなるまで多くの子供たちをスカウトとして育て上げた。
何が母を突き動かしたのかよく分からないが、80を過ぎるまで子供たちと野外のキャンプをしていた・・・実は今、私の山の家のある場所は母の隊のキャンプ地だったのだ。
母の意志は次姉が受け継ぎ79歳になるが今も子供たちとかかわっている。
もう一つ、両親ともにであるが、われら兄弟姉妹が自立してからは海外の留学生の面倒を見て、特にオーストラリアにはたくさんの擬似姉妹がいて今もわれ等との交流がある。

母の一生ははじめは苦難の連続だったが後半は見事に行きぬいたといっていいだろう。
私が母から受け継いだものはなんであるかは定かではないが、残された余生を母の生き方から少しでもまなんでいきたい。
yodaさんの投稿 - 15:53:20 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
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