"東京G散歩・笹塚"

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東京G散歩・笹塚

無頼の日々






一浪、二浪と宅浪して、3年目にしてようやっと上京した。
何故、宅浪だったのか訳が分からんが、親は東京に一人で出したりしたら、糸の切れた凧のようになると思って監視下に置いたのかも知れない。
けれど、最初から自分の能力で医学部に受かることなどないと思っていた。
事実、全国の総合テストのようなものを受けてもとても合格ラインに届くような成績ではなかったのだ。
親は、それでも何でもどうしても医者にしたいらしく、何年浪人しても良いから医学部に入れ・・・それが厭なら、自分で働いて自分の道を切り開け、しかしその場合は一切援助はしないと宣した。
そして医者になる場合条件があって、私立の医学部受験は不可で国公立のみ。
どうしても医者にしたいのなら、私立でそれなりの方法を考えれば道がなかったわけではないのだが(かの東京某医科大学のような)それは良しとしなかった。

3年目にして東京の予備校に通うようになったのだが、選んだのは代々木ゼミナールだった・・・ここは入学試験がなかったのだ。
当時、有名予備校としては駿台予備校があったがここは入試があったのだ。
当時の私には予備校の試験が受かる自信もなかったのでここはスルーした。
笹塚に下宿を選んだのは代ゼミに近い事と、当時笹塚の小学校に父の従妹が勤めていいて教え子の家で下宿屋を営んでいる所を紹介してくれたのだ。
渋谷区立笹塚中学の隣で、部屋は3畳だった・・・朝晩の賄い付であった。
同居人は7名で明治大学の一年生が主で一人だけ中央大学の4年生が居た。
明大生は長崎の人と、北海道の人だったが皆私よりも年下であった。
彼等は勿論、東京での生活は初めてだったので最初の頃は真面目に学校に通っていたが、夏休みが過ぎたあたりから遊び始めた。
私は彼等と交流したわけではないが、同調するようにその時期から糸の切れた凧状態となり駅の近くのパチンコ屋に入りびたった。
当時はパチンコの景品にタバコを取り、それを買ってくれる故買人が居てそこそこの小遣い稼ぎとなった。

思えば、あの一年間は誰の監視もなく自由で、ソコソコの送金もあり、食う寝ることも補償された。
そして年が明ける頃になって尻に火が付いたが、時すでに遅しで、親の援助は頼らずに自立の道を選んで教育系の大学に進学したのだ。
教育系なら家庭教師のアルバイトがあるのではないかと甘い考えだったが、結局は身体を張って、いろいろな仕事をして何とか卒業までこぎつけたのだった。
笹塚の一年は私とっては限りない自由の時間であった。
後にその代償を払う結果となったにしろ、無頼な青春の日々と言う所だ。

余談であるが、下宿の隣の笹塚中学には60年安保の時に犠牲となった樺美智子さんが教育実習で来ていたのだそうだ。
60年安保闘争は私が上京する2年前の出来事だった。


yodaさんの投稿 - 17:45:34 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
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