"季節だより風だより・元禄15年12月14日"

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季節だより風だより・元禄15年12月14日

討ち入り







「時は元禄15年師走半ばの14日」の名調子ではじまる赤穂浪士の吉良邸討ち入りの日。
師走の風物詩として毎年のように映画やテレビなどで放映される。
実際には今日、12月14日ではなく旧暦なので年を越した極寒の頃と思われる。
今から315年も前の出来事なのに歴史上の重大事件として今も芝居や映画テレビなどで演じられ今日の新聞にも関連の記事が載っていた。
これだけ長い間語り継がれてきたのはそのストーリーの中に日本人の心を揺さぶる何かがあるのに違いない。
けれど、冷静になって考えてみると、おバカな殿様が受けた屈辱に耐えきれず、私憤で暴力沙汰を起こしてしまった。
そして、その結果自分も自刃させられ、その家は取潰され、揚句に、その家臣達も路頭に迷う結果となってしまった・・・なんともトホホなはなしである。
けれど、その家臣たちは艱難辛苦に耐えてそのバカ殿の恨みを晴らす。
ここで面白いのは家臣団が2つに分かれ仇討ちに組した側とそうでない側がある事。
そしていくつもの葛藤があってそこにドラマが生まれてきているので今も語り継がれているのであろう。

しかし、冷静になって考えてみるとこの事件には何だかいぶかしいことが幾つかある。
元禄15年というと1703年で時代としては綱吉の治世で不逞の浪人が徒党を組んで大名家に討ち入る等至難ではなかったか…
この事件の50年ほど前に油井正雪を首謀とする幕府転覆の計画が露呈し(慶安の変)その後、江戸の治安は万全となっていたはずである。
それが、50名近い浪士が江戸に潜み、ある者は江戸城の近くに潜伏していたという。
おそらく時の幕府の中枢も警察機構{奉行所}も彼等の動静は掴んでいたはずなのに見て見ぬふりをしていたに違いない。
また、敵である吉良家は刃傷沙汰があってから、江戸城の郭内に在った屋敷が本所などと言う郭外に移され、浪士に狙われている事を考えれば討ち入ってくださいと言わんばかりだ。

どうやら徳川幕府は高家筆頭である吉良家の取潰しをもくろんでいたようである。
実際にその後の幕府の処断は吉良家の後継を許さずお家断絶となってしまっている。
というよりも、吉良家を根絶やしにしてしまっているのだ。
それは、徳川時代よりもさらに前の戦国時代までさかのぼった両家因縁はあるようで、浅野内匠頭の愚挙をうまく利用して吉良家に対する積年の恨みを晴らしたようだ。(日本の謎は地形で解ける・竹松公太郎著・PHP文庫にかなり詳しくその積年の恨みが載っている。)

どうやら歴史というものは時の為政者の都合の良いように語られていくようである。
今、平成の世も終わろうとしているがこの数年の為政者の愚挙はきちんと事実を明らかにして捻じ曲げることなく後の世に伝えてほしいものだ。




yodaさんの投稿 - 17:22:55 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
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