"かたくら通信・和菓子"

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かたくら通信・和菓子

修業







娘が就職した製菓会社は独自の店舗だけで販売する方法で発展してきた。
始めは山梨県下だけに店があり、工場から直に製品を運んで販売した。
そこで、テレビなどをはじめとするマスコミの宣伝を一切せずにその分を商品の値段に反映して廉価で質の良い製品を提供した。
また、小売りだけに徹して、それも直営店で売るだけなので中間の経費も浮くわけである。
材料も質の良い物にこだわり自家の牧場や農園なども持っていたようである。
特に、牛乳や卵などにはこだわりがあって氷菓や洋菓子系の商品は安く美味しかった。
宣伝と言えば唯一中央高速を走っているトラックだけが媒体だった。
そして、やがて中央高速で運べる範囲に販路を広げて、東京よりも中部地方や北陸方面に出店していったようである。

彼女は栄養士の資格と大学で学んだ食品学の知識を生かして商品開発の部署で働くことになった。
それも、洋菓子系ではなくその頃から力を入れ始めた和菓子部門であった。
その年の3月から我が家から離れて甲府の近郊のアパートに住むようになった。
経済面、健康面など気がかりなことは幾つかあったけれどタカコサンとは連絡を取り合っていたようである。
始め、和菓子部門に配属されたと聞いて韓国で育っているので和菓子の微妙な味など分かるのかと懸念した。
けれど、なまじ既成概念などない方が新しい製品を造りだす可能性を秘めているのだ。

彼女の仕事は無から何かを生み出すのではなくてすでにある製品をどのようにアレンジして新製品を造りだすかだった。
そのためにはまず会社は提携している各地方の有名菓子店に彼女を送り込んで何か月か住み込ませその製法とレシピを学ばせる。
その和菓子店は量産店ではないので製法とレシピを持ち出されても影響は受けないのだ。
彼女はそれを元にして新しい商品を開発し、量産できるようにラインに載せるのである。
今はあるかどうか分からないが、どら焼きにバターを挟むなどは伝統的な菓子職にはできない発想だと思った・・・バタどらと言ってヒット商品になったようだ。

実は彼女はその送り込まれた菓子店では大変苦労したようである。
そこは職人の世界である・・・まずは女である事、そして国籍が違う事でなかなか受け入れてもらえなかった。時に作業場に入れてもらえなかったこともあったようだ。
それでもなんでも人の嫌がることや、掃除、片付けなどから始めてその努力を認められて学びがあったようだ。

今でもその時学んだレシピは持っているようだ。アメリカで資本さえあれば店舗が開けると言っていた。







yodaさんの投稿 - 17:46:21 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
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