"遊悠読書・廃仏毀釈"

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遊悠読書・廃仏毀釈

忖度







まずは鹿児島だがこの地は明治維新の原動力となった人々を輩出した薩摩藩のおひざ元。
この地では明治の初期には寺院と僧侶が完全に消滅したと言う。
その理由は、幕末に薩摩藩は英国と戦争をしたいわゆる薩英戦争で富国強兵策をとり西洋化を急ぐあまりに寺院は軽んじられた。
そこで、寺院は焼き払われ、そこからとられた金属類の一部で偽造貨幣が造られたという。
現在、鹿児島県内の寺院の数は487ヶ寺だが全国の寺院数では42位だそうだ。
鹿児島の例は藩をあげての施策だったようでお隣の県の宮崎も薩摩藩の支配下にあったり、小藩が多く雄藩である薩摩藩に忖度して廃仏毀釈を徹底させたようである。
宮崎も現在も全国比に比べると寺院の数は圧倒的に少ない。

ここで今は流行りの「忖度」だが・・・松本はまさに忖度によって寺院が廃寺とされてしまったそうである。
ちょうど明治維新の時の藩主は徳川幕府寄りであったが藩主の身分を存続するために政府寄りに舵を切り替えて新政府の方針の「神仏分離令」を忖度して、拡大解釈の結果、徹底した廃仏毀釈を行ったのだ。
結果、時の藩主の戸田何某は県令として残る事が出来たそうである。
そして廃寺の結果、毀された建材を使って学校がたてられた今も松本市内に文化財として残っている「開智学校」はそれである。
藩主の拡大解釈によって毀損の嵐が吹き荒れたのには他にも理由はあったようだ。
それは当時の僧侶達の堕落ぶりが民衆の反感を買っていた事実もあり廃仏毀釈が民衆の運動として高まって行ったという一面もあったようだ。

もう一つ神仏分離令として廃寺や僧侶の還俗を迫る代わりに還俗した場合に僧侶を神官として採用したり、廃寺のその土地を還俗した僧侶に与える施策もあったようだ。
奈良の興福寺では僧侶ほとんどが神仏分離令を先取りして僧侶から神官への奉職を願い出て春日大社の神官へと移行したそうである。

先年、長野県の戸隠神社に1泊2日で詣でた時に案内してくれたM君が「この神社は明治維新までは神仏混淆で戸隠山顕光寺と言い比叡山延暦寺の末寺として修験道場として栄えて戸隠十三谷三千坊としてたくさんの信仰を集めていた」と言っていた。
そして神社の奥社に向かう参道の両脇には沢山の宿坊があったとその跡を案内してくれた。
その時はさして気にも留めなかったが、どうやら戸隠も維新に吹き荒れた廃仏毀釈が徹底して行われ参道わきの宿坊は全て毀されたようだ。
そして、寺の僧侶たちはほとんど還俗して神官となったようだ。
戸隠は松本と同じ信濃なので領主は違っても同じように徹底して行われたに違いない。
                         この稿続く



yodaさんの投稿 - 15:33:56 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
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