"学びの窓・38年前"

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学びの窓・38年前

経緯







今から38年前の学級だよりを綴じたものである。
それも1年間にわたり出し続けたもので、創刊が1981年4月6日で終刊については最後の方のページが何枚かとれてしまっているので定かではない。
けれど、残ったページの最後が1982年の3月10日でその号が癸隠横街罎任△襦
おそらく3学期の終わりまであと15日ほどあるので、実際には130号までいったかもしれない。
年間の授業日数は240日ぐらいなので単純に考えても2日に一度ぐらいのペースで出し続けていたと思われる。
原稿は今のようにパソコンなどない時代なので鉛筆の手書きでそれを特殊な印刷機にかけて刷ったものである。
私の癖のある書体がそのまま印刷されていて、恥ずかしながら誤字脱字も多い。

今から38年前の私は40歳でその年の11月に41歳となっている。
それまで8年間在籍していた町田市立鶴川第4小学校から転任して新しい学校で3年生を受け持つことになったのだ。
教師としてちょうど岐路に立った頃で、このあたりで将来管理職の道を選ぶか、一教師として退職まで頑張るかである。
私は最初から管理職の道は選ばず、出来るだけ子ども達に近い所に居ようと思っていた。
そしてまた、その頃は小学国語の編集の仕事や、全校学校図書館協議会の仕事、そして子どもの本を書く仕事などが錯綜していた。
今考えるとよくぞまぁあの忙しさを乗り切ったものだと・・・ほぼ毎日のように学校が終わると都内の教科書会社や学校図書館協議会の事務局に通っていて家に帰るのは大抵10時頃になっていた。
多忙ではあったけれど学校以外の所での人との交流があり日日が大変面白く、その後創作のような仕事にも結び付いて行った。
それだけに学校の仕事はおろそかにはできないのでまずは新しい学校で子ども達と馴染み、親たちにも理解してもらうために学級だよりがあったのだと思う。
私の場合は教師としてはどちらかというと強面で子ども達に馴染んでもらうのに時間がかかる。特に、低・中学年を受け持った時には最初の印象が悪すぎて登校拒否になり掛けた子どもも居たと後で聞いた。
また、世田谷の若林小学校に赴任した時、担任発表で「あの先生だけにはなってほしくない」と思っていた子が何と4・5・6年と3年間も付き合う羽目になった・・・
それが今も続いて・・・50年も付き合っている。

ともかく子ども達と一歩でも近くなるためのツールとして学級だよりはあったのだ。




yodaさんの投稿 - 16:48:16 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
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