"季節だより風だより・父の日"

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季節だより風だより・父の日

父との思い出








6月の第3日曜日は父の日・・・この日を祝う習慣は私の子どもの頃にはなかった。
調べてみるとその歴史は意外と古くアメリカで今から100年ほど前に、男手一つで育ててもらったご婦人が父に感謝の意を込めて白いバラを贈ったのが初めだそうだ。
日本ではいつから始まったのか知れないが商魂たくましい誰かが便乗して商戦として展開したのは間違いないようだ。
私には、岐阜に住む息子と、大阪に住む息子のような教え子からそれぞれプレゼントが届いた・・・有難いことである。

ところで私は父の日に何かしたという記憶は全くない。
物心ついてから父との関係は険悪で最悪だったからだ。
父に初めて会ったのは昭和21年のことだった・・・父が戦地から復員してきた。
頭はツルピカに禿げ上がり、痩せさらばえて想像していた人には程遠かった。
もちろん父と私は初対面というわけではないのだが・・・父は物心つく前に出征していたので写真でしか顔は知らなかった。
父は復員してきてから甲府にあった山梨県立病院に勤め、また離れ離れの生活となった。
結局、一諸に住むようになったのは昭和24年のことであった。
時すでに遅し…すでに私の人格のようなものは出来上がっていて、父と馴染むことはほとんど無かった。
父の側に立てば・・・そこには少しも言う事を聞かない上に、思ったほど頭もよくなさそうな子どもがいるのだ。
いくら「勉強しろ」と言っても、ことごとく期待を裏切られることばかりだったのだ。
そして父との関係が決定的になったのは弟が生まれた事だった。
父は私には見切りをつけて弟に期待を掛けたようであった。

私にしてみればいつも父の顔色を窺わなければならず、いかにして父の視界から逃れるかを考える日々だったのだ。
記憶に父に褒められたことは一度もない・・・何かを買ってもらった、どこかに連れて行ってもらったという事もない。
ただ、一度だけ映画を観に連れて行ってもらったそれもサスペンスドラマで「窓」か[裏窓]という題名だったか・・・少年が殺人を目撃する映画だった。
私は小学生だったと思う・・・怖くてまともにスクリーを観られなくて落ち着きなくそわそわしていて、家に帰って「この小僧は二度と映画に連れてかない」と宣せられた。
馴染まない子で最後まで自分の意に沿えなかった息子だったので父が疎ましく思ったことは今になると良く分かる。

お蔭で、私は父への反発をバネにしてやりたい事をやりたいようにやってこれたのだと思う。

yodaさんの投稿 - 17:43:05 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
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