"季節だより風だより・父の日に寄せて"

06 / 17

季節だより風だより・父の日に寄せて

父との確執







今でも時々父の夢を見る・・・それも叱られている場面ばかりだ。
何故、もうすぐ80歳にも成ろうと言うのに親子のねじれが解けないのだろうか・・・
そこにはいろいろ理由があるのだろうが、やはり戦争・出征があったと思う。

私が生まれたのは昭和15年11月であるが、ちょうど太平洋戦争の1年前である。
父は開戦と同時に召集されて入隊して南方の戦線に軍医として出征した。
私が1歳の誕生日を迎えたばかりの時であった。
当時は私達家族は父が勤務していた新潟に居を構えていて両親と姉二人と私の5人家族だったが出征と同時に新潟から両親の郷里である山梨に戻った。
そして住まいは父の実家である南巨摩郡静川村切石(現身延町)に同居する事になった。

当時,切石の家には祖母(父の母)と叔父夫婦(父の弟)そして寝たきりの叔父がいた。
父の実家は江戸時代の後期から身延山詣での人達を相手にした旅館を営んでいて、明治になってからは副業で郵便局を開いた。
そして明治の中頃には富士山観光の外国人を相手にしたホテルも併設した。
けれど、甲府〜富士間の身延線が開通してホテルも旅館も廃業に追い込まれ、副業でやっていた郵便局が本業になったのだ。
郵便局は郵政が施行された明治初年の開業でおじが4代目の局長であった。
本来は父が長男で後を継ぐべきであったが弟である叔父が病弱だったこともあって父は後継を譲った形にして自分は医者となった。
切石の家は旅館だっただけに部屋はいくつもあり私たち一家は裏二階という階段の急な二階の二部屋に住むことになった。
私は父と分れたのは1歳の時だったのでその記憶は全くなかった。

父の代わりに郵便局長の叔父が我が子のように可愛がってくれた。
叔父の夫婦には子どもがなかったので叔父は私にとって父親代わりだったのだ。
母は3人子どもを抱えて肩身の狭い想いの切石の生活があったようだ。
戦争も始めのうちは良かったが戦局が急を告げるようになってから東京方面から被災した親類が続々と元旅館の空き部屋を頼りに疎開してきた。
また、東京に出ていた父の弟や妹も帰ってきて大所帯となり母は大変苦労をした。
けれど、私は依田家の長男の跡取りということで母の苦労も知らず皆に可愛がってもらえたようであった。

戦争が終わって、突然のように父の帰還が知らされて実際に会ってみると自分の思い描いていた父とは全く違う人であったのだ。
父は叔父のようには甘えさせてはくれなかった・・・最初の出会いから戸惑いがあり全く馴染むことができなかったのだ。
父の方にしてもすでに5歳を過ぎて小憎らしい知恵もついたクソ餓鬼を馴染ませるのには戸惑いがあって当然だった。
何よりこういう子どもになってほしいと思っていた願いがことごとく外れたようであった。
この稿続く





yodaさんの投稿 - 17:52:39 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
コメント
コメントはありません
コメントを追加
このアイテムは閲覧専用です。コメントの投稿、投票はできません。
トラックバック