"八ヶ岳南麓だより・村山槐多"

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八ヶ岳南麓だより・村山槐多

非凡なる人







まずは槐多なる名前であるが、この名の名付け親が森鴎外であった事を初めて知った。
槐多の父親の村山谷助が鴎外の家で家庭教師をしていた時、奉公人だった「たま」を鴎外が引き合わせ槐多が生まれ名付け親となる。
谷助はその後、京都の中学の教師となり、槐多は幼少期から17歳になるまで京都で過ごす。
その間に彼の画才が花開くがその才能を見出し後押しをしたのが山本鼎である。

山本は母方の従兄。洋画家で創作版画家でもあり信州上田に住まう。
彼は14歳の槐多の非凡なる才能にほれ込み油絵具一式を買い与える。
山本は東京美術学校を卒業後パリに留学するが絶えず槐多に新しい美術の動向を伝える。
父親の谷助は槐多が画家になる事に反対し衝突するが仲を取り持ち金銭的な援助もしたと言われている。

さて村山槐多展であるが、幼少期から始まって彼の画才が花開くまでを時代を追って展示されていた。
1人の画家の画業を始まりから晩年までつぶさに見る事の出来た展覧会は今回が初めてである。
彼の生涯がたったの22年であり本格的な画業は14歳から22歳までと言われていてその短い生涯だった故に画業を一望出来たのであろう。
しかし、14歳から22歳までの作品がよくぞ残っていたと、そのことがまず驚きである。
14歳以前の作品、特にハガキに描いた絵と文なども展示されていたがその早熟ぶりに驚かされる。
14歳の頃の作品のほとんどはスケッチや水彩パステル画であったが非凡なる才能をうかがうことが出来る。
特に京都の妙心寺の回廊を描いた水彩はそこに至るまでのスケッチも同時に展示されていたが下書きにはパース図法跡が見られる。
おそらく独学であろうが升目を引いて立体的な絵となるような苦心の跡が伺えた。
非凡なる才能と同時になみなみならぬ努力があったことも分かる。
そしてその努力の跡のスケッチや下書きを周囲の人達が大事に取って置いたこと・・・彼が多くの人に支えられ愛されていた証であると思った。
彼を支えた人達、山本鼎を初めとして小杉放菴、高村光太郎、石井鶴三、江戸川乱歩、そして横山大観もいて大観は槐多の絵を買っているというのだ。

槐多の絵は18歳〜19歳の頃から変貌を遂げていく。
彼の造語だと思われるが「アニマリズム」と言い、おそらく当時西洋絵画の運動で起こったフォーヴィズムやプリミティズムの影響をうけたものと思われる。
しかしそれらの影響を受けつつも彼独自の画法と色遣いでひと目見て槐多の絵であることが分り個性が際立っている。
一見稚拙な絵にも見えなくもないが彼の画業がたどった到達点であろう。
しかし、彼がその後生きながらえてその画業を続けたときどのような変化を遂げたか…
もちろん空想の域を出ないが何か22歳で完結して燃え尽きてしまったのではないかと思えたのだが。




yodaさんの投稿 - 17:58:29 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
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