"かたくら通信・我が家"

05 / 20

かたくら通信・我が家

食生活






庄野潤三の家庭生活を描いた小説について書いてきたけれど、50年以上にも及ぶ我が家の生活はどうだったのだろうかとふと立ち止まった。
私たちが結婚したのは昭和44年(1969年)3月29日であった。
出会いについては同じ大学の同じクラスメイトだった、
最初からお付き合いをしていた訳ではなく、結婚を意識したのは大学3年の後半頃だったとおもう。それから結婚するまでに約5年かかった。
タカコサンは大学を卒業と同時に渋谷区の健康学園に赴任していった(千葉県の富山という所にある虚弱児のための全寮制の施設)
私は東京の西のはずれの西多摩郡秋多町東秋留小学校に赴任。二人は西と東に分かれた感じになった。大体月に一度ぐらいはちょうど中間にあたる新宿で会った。
紆余曲折がなかった訳ではないが、結婚の一年前にタカコサンは渋谷区立渋谷小学校に転任となり、私は結婚した年の4月から世田谷区立若林小学校に転任となった。
新居は二人の通勤も考えて調布市にある都住宅供給公社の多摩川団地の高層住宅に住んだ。
始めは二人とも電車通勤だったが私がこの年に車の免許を取り、タカコサンを途中まで送って私は車で学校へというパターンとなった。

そこで家庭環境も育ちも違う二人が一緒に生活して突き当たった問題は食生活だった。
朝は簡単に済ませ、昼は両方とも教員なので学校給食であった・・・問題は夕食。
タカコサンは両親ともに関西系の人なので出汁をちゃんととり味付けも関西風の薄味で、特に汁物は塩分控えめであった。
しかし私は・・・甲州山国育ち味噌醤油も自家製で塩分は過多である。
初めてタカコサンの作った味噌汁の味の薄さに驚いた。
そこで、諸先輩がのアドバイスにより、最初が肝心とやらかしてしまった。
「こんな薄い味噌汁が飲めるか」
今思えば諸悪の根源はここにあり、じっと我慢してタカコサンの味に順応していれば血圧も上がらず、腎不全から透析の道もなかったかもしれない…全て後の祭りである。

それから2年ほどして居を町田市の藤の台団地に転居して勤めもタカコサンは町田市に代わり、私は4年ほど世田谷に通い、町田市立鶴川第四小に転勤した。
結婚も5年も過ぎるとそろそろ子どもも…という所だが、我が家はでは全くその兆しはなかった。
父親が産婦人科の医者なので相談したが、授かりものなので自然に任せた方が良いと言われ、不妊治療のようなものは受けなかった。
生活は年を経るごとに忙しくなり食の方は余りに私の文句が多いのでタカコサンは辟易していてある種ノイローゼみたいになったようだ。
そしてそれが爆発して、「食事はあなたが作りなさい」となったのだ。
                                 この稿続く





yodaさんの投稿 - 09:55:11 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
コメント
コメントはありません
コメントを追加
このアイテムは閲覧専用です。コメントの投稿、投票はできません。
トラックバック