"来し方の記・勘当"

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来し方の記・勘当

学芸大入学








浪人3年目の結果は新潟大学の医学部は落ちて、2期校である東京学芸大学の国語科にどうにかひっかかった。
そこで、東京での下宿は引き払い甲府に帰って、親に報告した。
父親は激怒した・・・
「医者になるのなら学費は出すが、そうでないのなら、自分の力で大学に行け。身体だけは丈夫に育ててあるので、土方でも何でもするがいい」
ほぼ勘当に近い言い方であった。
私としてはある程度は覚悟はしていたことだが、貯めておいたお金では生活費の3か月分だけで、大学の入学金と、授業料にはとても足りなかった。

ある程度、母が何かしてくれるのではないかと思ったが、母は父の妻で、父の言うことには逆らえないようだった。
そこで、父の弟で、身延町切石郵便局の局長である叔父に借金を申し込んだ。
この叔父は戦時中に私の父親代わりをしてくれた人で父よりもずっと愛着を持っていた。
大学を卒業して給料をもらうようになったら返すという条件だった。
叔母も快く貸してくれることになった・・・彼等には子供がなかったので、後に私たち夫婦は両養子となった。
叔父たちにしてみると、出来れば彼らの跡を継いで郵便局を継いでほしいと・・・

とりあえずは入学金と授業料は確保できて、めでたく学芸大に入学した。
しかし、自分で働くしか収入の道はない。
親が普通のサラリーマンなら奨学金の制度も利用できたが私は勘当された身でも、親の収入は高収入なので奨学金の受給の対象にはならなかった。
ともかく自分の力で日日の生活費を稼がなければならない。
幸い住むところは大学の近くに賄い付きの下宿が見つかり3か月分だけは何とか払えそうだった。
まずは大学の学生課に行ってアルバイトを探したが自分が考えていたほど甘くはなかった。
一年生に家庭教師のアルバイトなどあるわけがなく、体を張った仕事ばかりだった。
とりあえず、国鉄のアルバイトは日銭となったので働き始めたのだ。
アルバイトでのいで立ちはお古の国鉄職員の上着を来て同じくお古の帽子をかぶり、腕に「臨時職員学生班」という腕章を付けた。
仕事は主に満員電車にさらに人を詰め込むことだったが、慣れてくると、改札の切符切りもやらされた。

同じ学生班が4人いて、いずれも学芸大の学生であったが・・・彼らは生活のために働くというよりも、今で言う、「鉄道オタク」だった。






yodaさんの投稿 - 16:05:47 - カテゴリー: 依田先生の徒然日記
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