«Prev | 1 | 2 | 3 | 4 |...| 1254 | 1255 | 1256 | Next»

2022-06-26

来し方の記・下宿

学生生活スタート









今から60年ほど前の下宿屋事情であるが、私が運よく住むことが出来たのは大学から歩いて10分ほどの畑中の一軒家だった。
未亡人の小母さんが一人で切り盛りしていて部屋は10部屋ほどあって大きさは3畳タイプが6部屋で4畳半が2部屋、6畳が2部屋だった。
下宿代は定かではないが部屋代として一畳に付き月1000円だったと思う。
そのほかに日日の食事代(朝・晩)がかかった。
下宿人は全て学芸大の学生であったが、面白かったのは同宿の男性が一年から4年までいてそれがすべて同年だったことである。
私が3浪で一年生、二年生はKさんという書道科の学生。3年生は職業課程の学生でOさんと言い八丈の人だった。4年生は現役で入学した人で数学科の学生だった。

この下宿には4年間お世話になり年が変わるごとに部屋がグレードアップしていった。
3畳の部屋には押入れがついていて窓際に机を置いて布団を敷くといっぱいいっぱいであった。
それでも何でも住むところが確保できて、一応2食は保証されて有難かった。
下宿屋の小母さんは奇しくも、同郷の人で「鰍沢」の人だった。
お子さんが二人いて成人している女性と小学生の男の子だった。
お風呂とトイレは共同で多少の不便はあっても当時の学生は皆こんなものだったかもしれない。
同宿の学生たちは全てアルバイトをしていた・・・それもかなり条件の良い家庭教師で、相場としては週に一回で月5000円ぐらいが相場だったと思う。

私の生活も本屋のアルバイトを中心として、いろいろな人づてもあってナントカ生活のめどが立つようになった。
多少の余裕が出来て、さて・・・学生らしい生活もしてみたいと、児童文学サークルなるものにはいってしまった。
動機は特になかったが、ひそかに物書きになりたいという思いはあって、部室の前を通ったところ、女子学生が歓談しているのが目に入り引き込まれるように部屋に入ってしまったのだ。特にまだ作家になるなどという野望はなかったが女性に囲まれたぬるま湯のような空間が心地よかった。
また、先輩の女子学生に誘われて、サトウハチローの主催する童謡のサークル「木曜手帳」にも顔を出すようになった。
しかし、サトウハチロウーが絶対君主で彼の意に沿うような詩しか採用されなかった。
なんとなく馬鹿らしくなって3回ほど行ってやめてしまった。
その「木曜手帳」に私の書いた詩が一篇だけ載った・







yodaさんの投稿 - 16:48:22 - - トラックバック()

2022-06-25

来し方の記・配達

愛真堂書店







大学に入学したもののともかく当座のお金を稼ぐために身体を張るしかなかった。
手っ取り早く稼げるのはデパートの配送だった。
今から60年も前の記憶だが、当時は配送は自転車の荷台にガラ箱という大きな箱を括り付けて荷物を入れて運ぶ。
この仕事は常時あるわけではなく、お中元とお歳暮の時期に学生に声がかかるのだった。
しかし、国立大学である学芸大は夏休みに入るのが遅かったので仕事にありついたのは7月初めではなかったろうか。
ありついたと言っても、周りやすい小金井市内や周辺はすでに私立の大学生がとっていて、国立、立川などのはずれの方まで炎天下を自転車をこいで回った。
ただ、品物一個についていくらという計算で頑張ればそれだけ実入りはよかった。

その日はまだ梅雨が続いていてそぼ降る雨の日だった。
ともかく品物を濡らさないようにビニールをかぶせて小金井の周辺を回り、あと数個となった。
小金井の北口の大通りを駅に向かって下っていたところ、小さな本屋の前で前輪が何かに乗り上げてバランスを崩して見事に転んでしまった。
幸い、品物は無事だったが、なんとも無様でこの時は本当に泣きたくなった。
と、物音に気付いて店から店主が飛び出してきて、自転車を起こしてくれた。
奥さんと思しき人がタオルを持って出てきてくれた。
店主に「学芸大の学生さん?」と聞かれた。
気持ちが落ち着いたところで、受け答えすると、「よかったら家で働かないか」と言ってくれた。
「そんなにたくさんは払えないけれど、昼食付、明日からでも来ないか」と言われた。
ちょうど月々に出る雑誌の配達とその他モロモロの手伝いをしてくれる人を探していたというのだ。

昼飯付きというのが何よりだった・・・ほぼ、毎日下宿屋で出される朝晩のご飯だけで済ませて昼飯を食べるまでの余裕はなかった。
即決で、次の日から「愛真堂書店」に勤めることになった。
ご主人も奥さんも福島の人でチョットなまりがあったけれど親切な人たちだった。
それから、大学を卒業するまでこの本屋に勤めて、本屋という仕事のイロハを学んだ。
本屋は外から見ると奇麗な仕事のように思えるが、結構ハードで汚れ仕事だった、
特に大変なのは雑誌や書籍の返品の仕事で基本雑誌は1か月、書籍は3か月で返品しないと在庫として残ってしまうのだ。
そしてもう一つは万引き対策・・・
本の利は薄く2割ぐらいなので一冊盗まれるとそれを埋めるのに何冊も売らなければならないのだ。








yodaさんの投稿 - 17:31:13 - - トラックバック()

2022-06-24

かたくら通信・ワクチン接種

4回目終わる







昨日は第4回のワクチン接種に行ってきた。
北野駅前のビルの2階が会場で、私の予約は12時からだった。
本来ならタカコサンがついて行ってくれるところだが所用があるとかで一人で行かされた。
80歳を過ぎていても4回目となると何も支障はなく、スムーズに事は運んだ。

予定の時間より30分ほど早く着いたので、もしかすると、早めにやってくれるのではないかと思ったが、そこはお役所仕事である。
「11時45分ごろ来て下さい」と言われた。
言われた通りの時間に行くと、プラスチックの札を渡されて、10分ほど待った。
まずは医者の問診を受けて、別室で注射をうけた。
それから15分ほど観察されて放免だった。
これで一応、コロナからは解放されたわけだが、副反応のようなものはまだ出ていない。

タカコサンは来週の月曜日に接種があるが、彼女の場合は前回発熱があった。
大事に至らなかったが、今回解熱剤をもらってあるようだ。
昨日あたりの東京都の患者数をみると、先週よりも増えていることが気になるが・・・また波が襲ってこないことを祈るばかりである。
それにソロソロ、マスクから解放されたいものだ。

タカコサンの接種が終わったら、久しぶりに美味しいものを食べに行く・・・まずは、浅草の「弁天山美家古寿司」に行き、ほんとの江戸前の寿司を食べてくる・
ここの寿司は江戸の古い形を残していてネタに必ず細工がしてあるのだ・・・
このところ何を食べてもおいしくないので、究極の美味を試してみたいのだ。
それから、秋口には埼玉県の「寄居」の「京亭」に荒川の落ちアユの鮎づくしを食べに行く。
ここの鮎飯は絶品である・・・40年ほど前何度か行ったが味が変わっていないと良いのだが。

もう、私には食欲しか残っていない。
それがこの頃、何を食べてもおいしくない・・・そこで多少、贅沢であっても、昔食べておいしかったものを試してみたいのだ。

このところ、肉類は見ても、あまり食欲をそそらないので、まずはこの2か所は和食系なので試してみたみたいのだ。



yodaさんの投稿 - 10:58:32 - - トラックバック()

2022-06-23

来し方の記・勘当

学芸大入学








浪人3年目の結果は新潟大学の医学部は落ちて、2期校である東京学芸大学の国語科にどうにかひっかかった。
そこで、東京での下宿は引き払い甲府に帰って、親に報告した。
父親は激怒した・・・
「医者になるのなら学費は出すが、そうでないのなら、自分の力で大学に行け。身体だけは丈夫に育ててあるので、土方でも何でもするがいい」
ほぼ勘当に近い言い方であった。
私としてはある程度は覚悟はしていたことだが、貯めておいたお金では生活費の3か月分だけで、大学の入学金と、授業料にはとても足りなかった。

ある程度、母が何かしてくれるのではないかと思ったが、母は父の妻で、父の言うことには逆らえないようだった。
そこで、父の弟で、身延町切石郵便局の局長である叔父に借金を申し込んだ。
この叔父は戦時中に私の父親代わりをしてくれた人で父よりもずっと愛着を持っていた。
大学を卒業して給料をもらうようになったら返すという条件だった。
叔母も快く貸してくれることになった・・・彼等には子供がなかったので、後に私たち夫婦は両養子となった。
叔父たちにしてみると、出来れば彼らの跡を継いで郵便局を継いでほしいと・・・

とりあえずは入学金と授業料は確保できて、めでたく学芸大に入学した。
しかし、自分で働くしか収入の道はない。
親が普通のサラリーマンなら奨学金の制度も利用できたが私は勘当された身でも、親の収入は高収入なので奨学金の受給の対象にはならなかった。
ともかく自分の力で日日の生活費を稼がなければならない。
幸い住むところは大学の近くに賄い付きの下宿が見つかり3か月分だけは何とか払えそうだった。
まずは大学の学生課に行ってアルバイトを探したが自分が考えていたほど甘くはなかった。
一年生に家庭教師のアルバイトなどあるわけがなく、体を張った仕事ばかりだった。
とりあえず、国鉄のアルバイトは日銭となったので働き始めたのだ。
アルバイトでのいで立ちはお古の国鉄職員の上着を来て同じくお古の帽子をかぶり、腕に「臨時職員学生班」という腕章を付けた。
仕事は主に満員電車にさらに人を詰め込むことだったが、慣れてくると、改札の切符切りもやらされた。

同じ学生班が4人いて、いずれも学芸大の学生であったが・・・彼らは生活のために働くというよりも、今で言う、「鉄道オタク」だった。






yodaさんの投稿 - 16:05:47 - - トラックバック()

2022-06-22

来し方の記・学芸大学入学

医学部








私は子供の時から医者になるように言われ続けていた。
しかし、それほど頭もよくないし、特に理数系がだめで、英語も身についていなかった。
医者になるには学年で20番以内ぐらいの成績でないと無理と言われていた。
私にとってはそんなポジションは夢のまた夢だった。
そしてまた、医者になる事に嫌悪のようなものを感じていた。
我が家は産婦人科の医院で出入りするのは女性ばかり、花柳界のお姉さん方も患者さんであったし、いわゆる赤線と呼ばれる地域の人も来ていた。
周囲の子どもたちには何度卑猥な言葉を投げかけられて傷ついたことか・・・
ともかく、父親の跡を継いで産婦人科医になる事だけは嫌だと思っていた。

高校三年の受験の時はそれでも北大の医学部を受けた・・・もちろん「エルムハカナシ」という電報が来た。
一年目の浪人の時は高校の補習科のような「成人学級」というのがあり、そこに通った。
たが他校から来た浪人生と遊び惚けていた。
勿論私は浪人一年目も受験に失敗・・・この年は新潟大学の医学部を受けた。
それでも一緒に遊んでいた彼らは山梨大学に入学して・・・折も折、60年安保で学生運動にのめりこんでいった人もいたようだった。
2年目の浪人は完全に宅浪だったが、図書館に行ったり、YMCAの会館に行って時間をつぶしていた・・・そんな折後輩であるM君とも知り合った。
ともかく身をいれて勉強をしたという経験はない・・・もちろん2浪目も落ちた。
実は、父親からの縛りがあって・・・私立の医学部は論外、国公立の医学部だけ・・・
2年目にはジプシーのように日本各地の医学部を受けた。
国立では新潟大学、群馬大学、公立では岐阜県立医科大学、三重県立、奈良県立、福島県立も受けたがことごとく失敗。
3年目の浪人は東京に出て予備校に通った。一学期はまじめに通ったが2学期以降はグズグズとなってしまった。
しかし、このまま浪人を続けていても受かる保証など全くないので、毎月送られてくる生活費と学費の中からなにがしかのお金をプールして医学部脱出計画をたてた。
とりあえずの目標つぃて東京学芸大学を選んだ。
学芸という言葉とこの学校は教師の養成大学なので、家庭教師の口が多いということを聞いたことがあったからだ。

そして浪人3年目の三月、一期校は一応新潟大学の医学部を受けたが、二期校を東京学芸大学としたのだ。
勿論、親には黙っての行動だった。


yodaさんの投稿 - 11:38:01 - - トラックバック()
«Prev | 1 | 2 | 3 | 4 |...| 1254 | 1255 | 1256 | Next»